現代日本をとりあえず想定するとして、
人生を決定づける選択は何か。
一般的な時間順序を想定すれば、順番に
1.学歴の選択
2.職業の選択
3.配偶者の選択
とすることができるだろう。
東大卒という恵まれた人には1.が入っているのに違和感を感じられるかもしれないが、
現実の社会では人によっては切実なものでもあるだろう。
さて、以下では2.について考えたい。
現代社会で生きていくには職業の選択は全員に必須のものである。
その選択の基準として、以下の3つを挙げてみよう。
(a)自分にできるか?
(b)自分がやりたいか?
(c)自分がやるべきか?
(a)
まず、その職業が自分にできる仕事かどうか。
もちろん、自分の能力では届かない仕事はしたくてもできない。
例えば俺が今プロ野球選手になりたいとかアナウンサーになりたいとか言い出したって
無理なものは無理だ。選択の上で当然の前提である。
また、たとえその職業に就けたとしても、能力的に厳しい仕事であれば
成功は望めないだろうし、続けることが大きな負担にもなるだろう。
その意味で、この基準は「自分の能力を活かせる仕事」という基準に通じる。
能力を活かすという基準は(c)でも触れよう。
(b)
第二、その職業を自分がやりたいか?
やっていて楽しい仕事じゃないと続かない、というのはよく言われることだ。
モチベーションを高く保持できなければ、充実した成果を残すことはできない。
とは言え、前稿でも書いた通り、これだけが職業選択の最優先基準になるとは
俺には思えない。
楽しいかどうかだけで納得して職業を選んでいる人は少なくないだろうし、
そんな人のほうが少なくとも刹那にはずっと幸せなのかもしれないけれど、
でもそれでは人生のもう一つの奥深い面白さを楽しみ損ねているといえるかもしれない。
ここで楽しむという言葉を使ってしまうと(b)と(c)の境界線はぼけてしまうけれど。
やっていて自分が楽しい職業、という点で、
給与その他の報酬、地位、名声などもこの項目に当てはまる。
多額の報酬をもらえれば、あるいは社会的に高い地位と賞賛を受ければ、
それは楽しいことだろう。
だが、これは人生を選択する上での基準の一つでしかないと強調したい。
立身出世が目的化してしまった人生のなんとつまらないことか。
また、報酬や地位のような俗物的欲求でなくとも、
より豊かな人生経験を得られるかどうか、
より豊かな交友関係を得られるかどうか、
も人生を選択する上で重要な要素と考えたい。
(c)
第三、その職業を自分がやるべきか?
これは一番判断基準を定めるのが難しい。
一方でそれゆえ、示唆に富んだ基準を導き出すこともできる。
完全に利己主義な人間であれば、(a)(b)の基準だけで十分だろう。
例えば、詐欺師ならばその仕事が可能でかつ儲かればいいのだから。
だが少なくとも人間として最低限の倫理観と哲学を持ち合わせていればそうはいくまい。
その仕事をするべきかどうか。
自己の倫理観に照らして考えることも、社会的規範に従って考えることもできよう。
とはいえ、自己の倫理観と社会規範が対立して相いれない場合は、
まずはなぜ自分の認識や価値観が社会の価値
観に反するのかを自問した上で
自分の価値観を修正すべきとなれば修正すればいいだろうし、
やはり社会慣習のほうが間違っているとなれば、
そのときはこの自問は政治家のような職種の選択を後押しすることになるだろう。
ここでは、最低限の社会規範には反していないとして、
自己の倫理観を基準として採用することにしよう。
自分が楽しいか、つまり自分自身に刹那的幸せをもたらすか、という基準に優先してでも
仕事に別の目的を持つのであれば、多くの人は自分以外の人への貢献を考えることだろう。
それは自分の愛する配偶者や家族かもしれないし、
自分の属する小規模なコミュニティ、あるいは地域、国家、世界かもしれない。
自分は不特定多数を助けることに貢献するべきだ、と考える信念を持っている人ならば
消防士か警察官、医師、看護士のような職業の選択が動機付けされるだろう。
国家や民族に貢献するべきだ、と考える信念を持っている人ならば
(彼らになぜその規模のコミュニティを貢献の対象に選んだのかと問うても
明快な根拠を聞けるとは思えないけれど)、
政治家や官僚、そして国軍兵士(日本では自衛官)といった職業がお似合いだ。
あるいは、宗教への献身を生きがいにする人も存在する。
真理という得体の知れないものへの貢献を口にする数学者も存在する。
だが、人以外への献身を人生の目的と考え始めたら、
もう一度自分の考えを整理して考え直してみるといいだろう。
そういった時には、どこかで自分で自分をだましてしまっている可能性が懸念されるから。
国家への貢献といいながら、国家という言葉が国民ではなく政体自体を指すようになれば
偏狭なナショナリズムはファシズムへと陥ることになる。
宗教への献身の危険な実例は枚挙にいとまがない。
社会への貢献という点で難しいのは、
より直接的に社会に貢献するセクターに属していると、
社会に大きな貢献をするまでに自分自身が力を持つのが難しい点である。
現代社会では、社会貢献ではなく利潤追求を行動原理とするセクターが
社会活力を生み出す役割を担っている。
ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットの生き方がベストかどうかは分からないけれど、
彼らがこれから慈善活動でどれほどの不幸な人を幸福にするだろう。
公的部門で社会貢献をするのもいいのだが、
社会貢献の動機付けを利潤追求の民間部門に持たせるのは有力な代替手段である。
また、特定の誰かを幸せにするというのでなくても、
この地球文明そのものに貢献するという意味を自然科学や文化芸術にも見出したい。
とはいえ、国家単位を貢献の対象に選ぶ必然性がないのと同様、
人類という単位を貢献の対象に選ぶ必然性もないことを書き添えておこう。
(a)で触れた「自分の能力を活かせる仕事」をしたいという感情は、
ひとつには自分の能力をより活かすことで自分の貢献を最大化したいを解釈できるだろうし、
あるいは自分の能力をより活かすことで報酬や地位とそこから得られる即物的幸福感を
最大化したいと解釈することもできるだろう。
以上は一般論を書き並べたつもりである。
最低限の生活を営むために選択の自由度がある程度あるという仮定の下で。
この3つの条件の内、いずれかにかたよって考えている場合には、
他の条件を無視するよう自分に命じてはいないか自問するのは有用な時間となろう。
(a)自分に向いているというだけで人生を選ぶのも、
(b)刹那の楽しさだけで人生を選ぶのも、
(c)他人への貢献だけで人生を選ぶのも、
もとより短い人生の面白さを最大化するにはバランスを欠いている。
さて、この基準をもとに俺はどう考えるべきか。
今はあまり時間がないから続きは次の機会に書くことにしよう。
他人、社会への貢献というのは、実際本当に他人のため、社会のためになっているか判断する基準は非常に難しいと思う。
結局のところ、自分の行動が他人や社会への貢献となっているかは自分自身が判断することとなり、自己満足の域を越えない恐れがある。
「自分が何をやるべきか」を自分で考えて行動している以上、それは「自分が何をやりたいか」で行動しているのと何ら変わりが無い、むしろ自分の行動の動機、責任を他者に押し付けてしまっていることにならないだろうか?
「他人、社会への貢献」を考えて行動するのは、他人、社会へ貢献した結果、自分が行動しないよりも、他人、社会がより良い状態になることが「自分にとって楽しい、嬉しい、やりがいがある」と思うからではないだろうか?
それを思ったとき、自分勝手だと思われるリスクを冒しながら、「自分がやりたいからやっている」と言い切れる人はある意味尊敬に値する、とも俺には思える。
自然科学の研究、という社会、文化への貢献がすぐには目に見えないものの場合、「自分がやりたいから」が第一義にあり、「社会、文化への貢献」がそれを職業とすることの妥当性、正当化するものとなるのが、しっくりする気がする。
こちらの日記にもそのうち何か書くかもしれません。
逐一反論するよりも、一つの例を挙げる方が早いかもしれない。
ロバート・オッペンハイマーと、エドワード・テラー。
どちらが尊敬に値するだろうか?
一方は、自分が半ばやりたいからやっていた研究が自分の倫理観に反することを見出し、反核運動に身を投じた。
一方は、自分が半ばやりたいからやっていた研究を続け、人類誕生以来初めての絶滅の危機を現実化させた。
確かに社会への貢献の基準が自己中心的になる懸念はあるが、それは自己の社会的倫理観をいかに磨くかという別の問題であって、だからといって自己完結的な利己主義を肯定する理由になりはしない。
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これで納得しないなら、以下の反論について考えてみるといい。
1.
自己の倫理的行動規範に従って行動する上での動機も責任も自己以外に帰属し得ない。他者に押しつける理由がどこにあろうか。「他人のためにやってあげているんだ」というような傲慢なご都合主義は論外。
2.
例えば、自己の生命を犠牲にすれば愛する人を救えるとしよう。そのとき、「自分が何をやるべきか」を考えた上で自己の生命の放棄を選択する人は存在する。これをもって≪他人、社会がより良い状態になることが「自分にとって楽しい、嬉しい、やりがいがある」と思うから≫と言えはしまい。利他的思考は利己的思考から全て導かれるものではない。
3.
「自分がやりたいからやっている」人は≪自分勝手だと思われるリスクを冒し≫ているのではなく、単に自分勝手なだけだ。自分がやりたいことをすることができる環境は数多くの人の善意で支えられているのに、一方で自分からは社会に還元する視点を持たないのは自分勝手と呼ばないのか。
4.
自然科学研究者であっても、「社会、文化への貢献」が「自分がやりたいことをやる」ための社会向けの言い訳でしかないと考えるならば、それは自己完結的な利己主義の典型と言うほかない。
>確かに社会への貢献の基準が自己中心的になる懸念はあるが、それは自己の社会的倫理観をいかに磨くかという別の問題であって、だからといって自己完結的な利己主義を肯定する理由になりはしない。
この言葉だけで十分だと思う。
ただ、社会への貢献を動機に置きながら、それを間違った風に考えて結果社会に仇なす研究をしてしまう人と、自分のやりがいを理由に結果として社会へ非常に良い貢献をなす研究をする人とを比べた際に、どちらが称賛されるべきかといえば間違いなく後者だ。
社会への貢献を基準にする人は、
そのことを胸にとどめることを忘れてはいけないと思う。
また、我々がこれから先、研究テーマを考えるにあたって、最終的には「何が面白いと感じるか」が基準になってしまわないか?
それを思ったとき、自分がなぜその研究を職としているのか、の答えに社会への貢献を俺は口にはしづらいと思う。
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以下コメント。
1.それが分かっていながら、そのとおりに自分の感情が動いてくれないのが、悩みのタネ。
2. 1.があるから、利他的思考は自己満足にすぎないのではないか?という自問を常に忘れないようにしなければならない。
3.
>自分からは社会に還元する視点を持たないのは自分勝手と呼ばないのか
これは当然考えた上で、と言うのが俺の意見の前提です。
その上で「やりたいからやっている」と言い切ることのできる強さを持てるのであれば、それはそれで一考に値する。
4.それはそのとおり。
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他人に対し、社会への貢献を思って自然科学を研究する、というのは、個人的には「他にも社会への貢献する手段はあるし、なぜそんな社会への貢献がすぐには目に見えないものを選んだの?」という疑問が生じてしまう。
だから、俺は
「自分のやっている研究はこのように物理学上価値があるし、面白い。さらにこの研究によってこんな風に社会への貢献が実現され得る。だから自分はこの研究をしているのだ。」
という方が、よっぽど説得力を持った言葉になるのだと思っている。
実際の思考の流れもそうだと思うのだけれど、kuriの場合は違うのかな?