(メモ)3年間の節目、現在の視点

中学校の文集の「将来の自分」欄に「天文学者」と書いていたほど既定路線に考えていた、
科学者としての道から離れたのは3年前でした。
そのとき、大学の研究室でとてもお世話になった方から、
《社会に出て働いてみて3年くらい経ったころに、どんなことを感じているかを聞いてみたい》
という言葉をもらったのが今でも印象に残っています。

― 自然科学の研究者として、その深遠な研究対象を見つめながら生きてみた場合と、
同様の思考規範や演繹能力をベースとして、幅広い実務的な課題に取り組んでみた場合と。
ある程度の経験を踏まえたときに、それをどう比較するだろうか ―

― これから、それまでとは全く違う人々、全く違う優先度の中で過ごしてみて、
自分は何を感じ取るだろうか、自分が持つ視点や価値観がどう変わるだろうか ―

それから、この4月でその3年間を迎えました。

最初の1年半は規模が大きく確立された組織で、そのあとは少人数で自分たちで作る組織で。
社内外の様々な人と様々な働き方、関わり方で一緒に仕事をする中で感じ貯めたこと。
また、その途中では生まれて初めて大きな病気を経験し、
薬の副作用や不安定な経過に悩まされる中で感じた自分の視点の変化。
直近では、他の皆さんとも同じながら、震災で陰に陽に受けた影響も小さくないと感じます。

この機に、今自分が持つ視点や価値観を文章にしておきたいと思い、これを書いています。
この時間を経て、大切だと新たに気づいたこと。
そして、様々な考え方を持つ人と出会ったけれど、それでもやはり信じ続けていること。

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■ 1.真偽と軽重を見抜く力を研ぎ澄ます
■ 2.実行する困難と価値を認識
■ 3.組織内論理に支配されない
■ 4.「どこで働くか」より「誰と働くか」
■ 5.自分が楽しみ持続できる努力を
■ 6.人に頼り続ける人生、常に感謝
■ 7.今、次に考えていること
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■ 1.真偽と軽重を見抜く力を研ぎ澄ます

剃刀のごとく鋭く、事の真偽と軽重を見極めることの重要性。
それは、理論物理学や科学的思考から得た価値観の核心にあるものでした。

ですが、働き始めてしばらくの間、この大切さを見失っていたように思います。
数多の価値観を持つ人々から日々学び取ろうとすることに没頭しすぎ、
自分が大切にしていた価値と、なぜそれを大切にしていたかは傍に置いていたと今感じます。

しかし、考える時間を取って冷静に振り返る今、やはり
何が正しいか、何が重要か、を見極めることの重要性は揺るがないと再認識しています。

特に、今回の震災のように誰も経験していない状況下での判断は、
論理的、客観的かつ定量的な真偽と軽重の認識の有無によって決定的な違いが生じます。
企業の重要局面に立ち合う戦略コンサルタントという仕事でも、その条件は同じです。

しかし一方で、一線の科学者の中では当然のものであるこの真偽を見極める力は、
実業に携わっている人々の多くには、とても縁遠く理解しがたいものであるのが現状です。

社会的リーダー層であるはずの方々にも、この能力や認識を著しく欠いている人が散見され、
重大かつ自明な誤判断を下す可能性を抱えている状況を見ると不気味な感覚を覚えます。

真偽と軽重を高い水準で的確に見極めるには、
複雑で多層的な論理構成と単位や桁が異なる多数の変数とを自由に扱える必要があり、
世の中の誰もにこれを高い水準で期待すべきものではありません。
また、もちろん、科学者にありがちなように「正しさを追求していさえすれば良い」と
考えているだけでは何も出来ないのも確かです。

ですが、世の中の社会的リーダー層として役割を持つ方々が、
(科学者のような高い水準は全く必要ないにせよ)
真偽と軽重を判断する一定水準の能力を持つことの意味を認識するのは重要ではないか、
また同時に、一定程度に高い自然科学のバックグラウンドに持った人々が、
普段から研ぎ澄ましている真偽と軽重を見抜く力を用いて、
社会に対して適切な形で価値提供をすることは、小さくない意義を持っているのではないか、
と思っています。

■ 2.実行する困難と価値を認識

「真偽と軽重」は、以前から持っていた科学の価値観を再認識した例ですが、
逆に、実業に携わらなければ理解できなかったと思う価値観が「実行の価値」です。

これは、最初の職場でも様々な表現で教え聞かされていたとは思いますが、
今の環境に移って主体的な立場に近づくまでは体感としての理解はしていなかったと感じます。
今後さらに主体的に事業に携わる機会に恵まれれば、
今よりさらに思い知らされることになるのだろうとも、今容易に想像できます。

大勢の人々に実際に手を動かしてもらい、事業を運営し前に進めること。
大勢の人々と雇用の約束をし、将来に渡っての仕事と給与の提供を保証すること。
自分たちが顧客に提供する価値を設計し、その価値に値段をつけ、
値段に見合う価値を納得してもらって顧客の資産の一部から代金の支払いを受けること。

実際に行うときに、いずれも空想しているほど楽なものではないことは、
より主体的な事業運営をされた経験のある方ほど感じられているものと思います。

そして、その簡単ではない役割を誰かがやっていなければ、
世の中に雇用はありませんし、便利な日常生活もないのです。

これを体感し認識し始めて、様々な場面での考え方が大きく変わってきたと感じます。
例えば、実行を担っている組織(例えば企業や行政)に対して、
改善提案や代案を含まず単にその批判に終始している主張が見受けられますが、
そういった主張は、その批判対象に関わらずほとんど無価値だと感じるようになりました。

震災後、政府等の対応に対して代案もなく非難の言葉を並べる人々が目についたことでも、
この認識はいっそう強くなったように感じます。

常に、批判ではなく提案をする人間でありたい、
そして机上の議論だけでなく価値創造や雇用創出に貢献できる人間でありたいものです。

■ 3.組織内論理に支配されない

子供のころを思い出すと、学校では「進路」と呼ばれていたものについて、
組織や職種といった抽象的なもので考えていた気がします。
「○○大学を受験する」「○○株式会社を志望する」「政府で働く」「国際機関で働く」・・・

やはり、大学や会社、各種機関といった組織は、
子供のときに存在を知って以来それは所与の確立した存在と受け入れてきたもの。
大学名や企業名へのブランドとしての憧れも加わり、
どのハコに所属するかを決める「受験」や「就活」が人生を左右する重要なことと
思えていたことも自然な経緯でしょう。

そして今、ハコの内や外で働いてみて、あるいは自分のハコを作りもしてみて、
ようやく腑に落ちるのは、世の中のハコは
どれもあいまいで動的で有機的で、人の心の中と紙の上にのみあるものだということ。
会社組織や行政組織というものは、大企業から中小企業までどれも、
まず誰もじっくり読んだことのない細かな字がびっしり書かれた紙と、
その組織の中で過ごしてきた人がいつしか心にはめ込んでいた木枠とで出来ているもの。

そうすると、自分を包んでいる「頑丈なハコ」を永続的なものと信じ、
その中でしか通用しない論理の取り扱い方に熟達してゆくことは、
なんだか奇妙で滑稽なことのように思えてきました。

一方で、「きちんと機能するハコ」を作り、
そのハコで大勢の人々が能力を発揮できる場所を提供することに貢献している人は
それだけでも敬意に値すると感じるようにもなりました。

■ 4.「どこで働くか」より「誰と働くか」

「どのハコに所属するか」を重要視する気持ちは薄れる一方で、
それに代わって重要だと感じる気持ちが強くなってきたのは、
誰と一緒に働くことができるか、ということです。

一緒に働いていてとても有意義で面白いと思える人と、
逆に残念ながら一緒に働く機会も不毛と感じてしまう人とが、
自分の考え方や働き方を研ぎ澄まそうとすればするほどに
くっきりと分かれてしまうように思います。

前者だと思える人の共通要素は何だろうかと考えてみました。
思い至ったのは
《生まれてこのかた数十年間の間に、
こだわりを持って自分の頭で思考を積み重ねてきた総量》
にざっと比例しているのではないだろうか、と。

(『思いて学ばざれば則ち殆し』の論語の節もありますが、
本当にこだわりを持って深く思考し理解しようとする人は、
「今の自分の考え方以外にも他に重要な視点があるのではないだろうか」
とも考えるでしょうし、それも含めて「思考の蓄積総量」が指標になるのではと。)

一緒に働きたいと思える人の条件は僕の場合にはこのようなものだと感じますが、
これは人によって性格や価値観に従ってそれぞれに異なることでしょう。

その条件がどのようなものであれ、
生き生きと自分の能力を活かして結果を出せるかどうか、
また、自分を次のステップに進めるのに的確な刺激を受けられるかどうかは、
誰と一緒に働く環境を得るか、が最も大きな分かれ目なのだろうと感じます。

■ 5.自分が楽しみ持続できる努力を

去年経験した病気は、
国内の患者累計10万人になるもののまだ原因が特定されておらず研究途上で、
有力視されている原因には複合的な遺伝要因などが含まれると聞いています。
働いていた環境の名誉のために書いておくと、
「長時間労働で倒れた」とか「ストレスで胃潰瘍」といったものとは異なるようです。

いずれにせよ、この経験は、自分の考え方にも大きな影響を受けたように思います。

計3度、合わせて9週間のあいだ病院にいて、
仕事のスケジュールが崩れて各方面に迷惑をお掛けしもしました。

徐々に量を減らしながら服用している薬の副作用によるものらしい
精神的な不安定が続いたことも、想像したことのなかったつらい経験でした。
《人間は、化学物質による化学的な作用で、
物理的に身体は正常でも、本当に何も出来なくなるものなのか。
精神疾患に苦しんでいる人の感覚もこれに近いのだろうか、
自分の場合は数ヶ月で終わると思えるからまだいいけれど、
終わりが見えないとしたら本当につらいだろう。》
こういったことを感じながらでした。

また、この精神的な不安定に加えて、
食事を制限するように言われていること(脂質が良くないので揚げ物を避ける、等)や、
体調が安定しないので直前に断らないといけないこともあり、
友人に飲みに行こうと誘ったり誘いを受けたりするのが気軽にとはいかないのも、
いろんな人と話す機会を増やしたいとうずうずする思う今、とてももどかしく感じます。

このような経験を経て今、
制約条件をまず是として受け入れ、その中で何をできるかを考えるようになったと感じます。
不調に悩まされずに自由に活動できる時間は無限ではないから、
それを人のため、自分のために、大切なリソースと考えて活用する。
「ここが頑張りどころ」と無理をした時の代償を自分で把握し、自分の時間の安売りはしない。
持続的な形で自分なりの努力を続けられるようにするために、
自分が楽しめるスタイルや程度を理解して、その範囲での努力を心掛ける。
人と自分とでは、出来ることや配慮が必要なことが必ずしも同じではない前提でものを考える。

持続的に自分が楽しみながら、自分のリソースの範囲内での努力を続けられるようにすること、
これは、今は健康に不安のない方も、どこか頭の隅に置いておかれると良いと思います。

■ 6.人に頼り続ける人生、常に感謝

とても多くの人に直接間接に頼り助けられながら生きている、ということは、
今回の病気の経験にしても、また、先の震災の経験にしても、
つらい経験や感覚を覚えたときに特に実感するものだと感じます。

ですが、多くの人に頼りながら生きているのは何もそのときに限ったことではありません。
助けていただいている方々への感謝を強く感じたときの気持ちを忘れず、
感謝の念を常に心に置きながら生きていたいものです。

今回、幸いにして充実した環境の病院で安心して治療を受けられ、
親切にしていただいている方々へ感謝の念は堪えません。

仕事上でも、状況を理解していただき、仕事に使える時間が限られかつ不安定な中でも、
役に立てる充実した時間を過ごせる環境をいただいている方々にも感謝。

何よりも、ともすれば不安感に苛まれて何もできなくなりそうな状況でも、
自分が楽しめる範囲内での努力を続けていれば自分の価値はあるんだと、
公に私に自信を持たせてくれた方々に最も感謝すべきところだと感じます。

形式的な意味での人生の進捗は、この1年間ほどは遅滞してしまった気もします。
ですが同時に、この経験がなかったらと思い浮かべると、
これらの感謝の念が残りの数十年の選び方をより深いものにしただろうと感じます。

そしてこれから、体調が落ち着いてきて今の倍の時間を使えるようになるとすると、
さあどんな面白い時間の使い方ができるだろう、これまで迷惑を掛けた分も取り返せるだろうか、
と今はむしろわくわくする感覚さえ覚え始めているところです。

■ 7.今、次に考えていること

最後に、今少し考え始めていることを書きとめておきます。
これから時間を取ってじっくり考えて自分の考え方を構成したいこと。

人が自分の行動を選ぶ原理は、
なるべくポジティブな感情(例えば、嬉しさ、楽しさ、快感、幸福感)が多くなるように、
なるべくネガティブな感情(例えば、辛さ、寂しさ、不安、怖れ)が少なくなるように、
と、意識的にあるいは無意識に、選んでいるもの。
この、感情と行動の相互のつながりが、人というものを理解する基礎なのだと感じます。

そして、この行動選択が一つではなくいくつも集まると、さらに違う様相が見えてきます。

一人一人は、自分にとって正しいと思える選択を行っているつもりなのに、
それが大勢の集まりとしては、時として全く機能不全になってしまう。

また、一人の人の中でも、
その瞬間には正しいと思えた選択を行っているのに、
長期的には意図せぬ方向に進んでしまうことも多々あるでしょう。

― では、
行政や政治、企業、市民にとって究極的な目的と言える、
《社会集団全体の総和で、かつ長期的に、
ポジティブな感情が多く、ネガティブな感情が少ない状態を目指す》
というマクロスコピックな理想的目標と、
《一人一人が、瞬間的に、
ポジティブな感情が多く、ネガティブな感情が少ない状態を得ようとする》
というミクロスコピックな動作原理とが、
うまくつなぎ合わされて機能するためにはどうすればよいか ―。

社会を悩ませる問題の多くが、この課題意識に包含されると思います。
例えば、
― 長期的に地球上に住む人々全体の幸せの総量を損なうことが目に見えていて、
どうして人類社会は炭素排出による気候変動に迅速な対応を取れないか。
― 日本全体で子や孫の世代に大きなリスクを残すと容易に想像できるのに、
どうして日本の国民と政府は早期の財政再建と増税を選択できないか。
― 今は国を挙げて震災からの復興に尽力するべき時だと理解するのはたやすいのに、
どうして議員の集まりとなると全く滑稽で日本が恥ずかしくなる行動を取ってしまうのか。
― 日本は、一人一人が幸せになろうと努力した成果として、経済的豊かさや便利で安全な
社会インフラを手に入れながら、同時に高い自殺率といった不幸せも抱え込んだのはなぜか。

これに対する答えをとは言わないまでも、自分なりの考え方を見つけられればと思っています。
心理学や経済学など既存の学問が対象としてきた部分はその蓄積に学ぶ時間も取りながら。

以上、ここまで何度かに分けて書き足しているうちに、
最初に考えていたよりかなり長い文章になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方に感謝。
もし1つ2つの小さな発見でもありましたら幸いです。

そしてまた3年前と同じく、次の3年間に心を馳せながら。