東日本大震災以来、折に触れて考えていることがあります。
日本人を「不安」という感情の観点から読み解くと、震災以降の一見理解しがたい動きにも光明が見えてくるのではないか。さらには、そこから、日本の取るべき指針にも示唆があるのではないか、と。
(以下では、感情的な対立が見られる政治的論点(原発、TPP、消費税など)についても触れます。なるべく客観的・普遍的な観点を取るよう心掛けていますが、これらの論点についてご自身の立場との違いによって感情を害される方もいるかもしれないことをご了承ください。また、特に、原発に関する部分は物理学を専攻した者として、経済に関する部分は経営戦略立案・消費者行動分析を生業とする者として、技術的知識や定量的把握に基づいた著述を心掛けています。)
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■1.震災のあとの日本
■2.「不満」で動く欧米人、「不安」で動く日本人
■3.「不安」から「好き嫌い」への固定化
■4.本当に恐れるべきこと
■5.まとめ:適切に「不安」を語れるリーダーを
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■1.震災のあとの日本
東日本大震災のあと、日本に起こったこと。
まずここからひも解いてみましょう。
東日本大震災では、死者・行方不明・関連死を合わせて、おおよそ2万人という数の命が失われました。家族を失う深い悲しみを背負った方々の数はその数倍になるでしょう。さらに、避難生活を強いられたのが(今も戻れない方も含め)数十万人。家が流される、仕事先がなくなるなど様々に苦しい思いをした方は数百万人にのぼるでしょう。
同じ時期に、被災地以外の日本の残りの地域で何が起こっていたかというと、原発事故による放射能におびえる「不安」の爆発的な蔓延でした。
東京から西日本に退避するという極端な行動に出る人も多く、著名な企業までもが、社員を東京から大阪への移動を推奨するというパニック心理を助長する行動を取りました。
水道水から放射能が検出されたと報じられると、健康に影響する水準の1万分の1程度などであったのに関わらず、毎回ペットボトルの水が買い占められる事態となりました。
TwitterなどのSNS上には不安をあおるデマ情報があふれ、テレビなどのマスメディアでも、不安を誇張するエセ学者が連日登場し、科学的で客観的な情報を提供し続けていた政府に対する盲目的な批判を流し続けました。
震災直後に日本で起きたことは、まさに「不安」の連鎖による社会的パニックだったと言ってよいでしょう。
震災からずいぶん経ったあとでもなお、被災地のがれき焼却に対して反対運動が起こるなど、震災復興を妨害するほどの「不安」の連鎖は今も続いています。
総選挙の候補者たちの争点も、2万人の犠牲者を出した震災からの被災地復興事業はまるでもうすっかり忘れられたかのようで、一方で(1人の直接的犠牲者も今のところ出さずに収束に向かっている)原発事故の「不安」心理に訴えての「脱原発」ばかりがにぎやかに議論されています。
今回の震災では、被災地での、厳しい状況のもとにあっても誠実さや思いやりの心を忘れず、略奪や暴動などの社会的混乱も発生しない様子は、日本人の素晴らしさとして、海外からも驚きと称賛の声が集まりました。
被災地での救助に当たった多くの方々の厳しい条件下での献身的な活動、その後の長期的な様々な形での支援もあっての復興の息吹は、苦難を乗り越える日本を世界にも印象づける、とても心強いものでもありました。
その一方で、なぜ同じ日本人が、被災地以外では、この肝心の時期に《東北の被災地はそっちのけでの大騒ぎ》を演じてしまったのでしょうか。
これを単に、「放射能という、初めて聞くもの、目に見えないものに対しては、人は特に不安に感じるものだ」というだけで片付けてよいものなのか、それが震災以来ずっと違和感として引っかかっています。
■2.「不満」で動く欧米人、「不安」で動く日本人
がらりと話を変えて、今流行のスマートフォンについての話をしましょう。
世界的に何億台と売れているスマートフォン。
海外(特に欧米)では、Samsung製やApple製が売れ行きを競っています。
彼らがアピールする製品の強みは、デザイン、画面の解像度、CPU性能、メモリ容量・・・。
それぞれ、「かっこ悪くて不満だ」、「画面がきれいじゃなくて不満だ」、「動作が遅くなってきて不満だ」、「アプリを入れられなくなって不満だ」といった声にメーカーが答えてきた結果でしょう。
一方、日本では、ほとんどのメーカーが、世界で売るためのモデルとは別に、日本専用のモデルを作って日本で売っています。
日本モデルにはほぼ必ず入っている機能が、「防水」、「ワンセグ」、「赤外線」の3つ。これらは、日本以外ではまず見ることはできないはずです。
日本では、これらの機能が入っていない欧米市場仕様のモデルは、発売されてもほとんど売れず、すぐに販売中止になることもあるほどです。ですが、スマートフォンを持っている方で、これらの機能を実際に使っている方は多いでしょうか?
これらの機能は、実際に使いたいから望むこともあるでしょうが、むしろ、「水に濡れることもあるかもしれないから、壊れると困るから」、「外出中にスポーツ中継など見たくなることもあるかもしれないから」、「SNSを使うようになって連絡先交換の必要もなくなってきたけど、出会う人によっては必要になるかもしれないから」と思って、これらの機能付きの機種を選んでいる人も多いでしょう。
つまり、欧米人は「不満」でスマートフォンを選び、日本人は「不安」で選んでいる、と言えるのではないでしょうか。
いまどきのスマートフォンの話から離れ、歴史を振り返ってみましょう。
やはり、欧米では重要なシーンには「不満」が、日本では「不安」が顔を出します。
ヨーロッパ近代史の転換点となった1789年のフランス革命。市民が貴族・王族に対して、固定化した階級社会への「不満」を爆発させたバスティーユ監獄事件に端を発し、王政から共和制へ転換されました。
現代の超大国の起点となった1776年のアメリカ合衆国独立。宗主国イギリスの課税への「不満」が、ボストン茶会事件、独立戦争へと導きました。
あるいは、現代史を決定付けた1939年開戦の第二次世界大戦。ドイツでのヒトラー・ナチスの台頭の背景には、ベルサイユ条約下で国民に鬱積した「不満」がありました。
一方の日本。
近代国家への転換点となった明治維新・戊辰戦争は、ペリーの黒船に始まる諸外国の来訪、未知の軍事技術を目にしたことでの「不安」が人々を突き動かしたものでした。
その後の、日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、満州事変、そして日米開戦に至る諸戦争も、諸外国への「不満」による部分よりも、欧米列強の脅威、東アジアに触手が伸びる植民地化への「不安」による部分が大きかったと思われます。
現代でも、この傾向は同じようです。
2011年、「Occupy Wall Street」を合言葉に、ニューヨークを始め、欧米では各地に広がった「99%対1%」の格差社会への抗議デモ。「1%」の富裕層に対する「不満」を表明する運動でしたが、日本ではそれほど盛り上がりませんでした。ましてや、同年のロンドン周辺での低所得者層による暴動のような事態が日本で起こることはなかなか想像できません。
一方で日本では、「脱原発」デモ、「反TPP」デモは霞が関などで大いに盛り上がりをみせました。
これらのデモ活動で人々を駆り立てるエネルギーとなったものは何だったでしょうか。「脱原発」デモの場合は、原発の存在によって自分や家族の健康が損なわれるのではないかという漠然とした「不安」、「反TPP」デモの場合は、産業構造の転換によって自分や仲間の職が危うくなることへの「不安」、と解釈することができるでしょう。
このように見ていくと、「不満」は耐え忍び、でも「不安」には突き動かされる、日本人の姿が浮かび上がってきます。
被災地では避難場所の不便な生活に不平を漏らさず、一方で被災地外では放射能への不安に踊った震災時の日本人の行動にも、一定の理解が見えてきます。
■3.「不安」から「好き嫌い」への固定化
「不満」ではなく「不安」で動く日本人。
これは、文化の歴史を背景として、日本人が尊ぶ美徳とも密接に関係しているでしょう。
和の思いやりの心の基盤でもあり、日本人として大切にしていきたいものです。
ですから、私達は、「不安」に突き動かされやすい社会的性質があることを自覚し、その「不安」が根拠のないものであれば解消に努め、本当に「不安」に感じるべきものには敏感であり続ける、そうやって「不安」と付き合っていくべきなのでしょう。
一方で、心配に感じることもあります。
「不安」に思う気持ちが高揚し、さらに同じ「不安」を持った人たちが集まって共鳴した時には、それが問答無用の「好き嫌い」の気持ちとして正当化されてしまう傾向があるように思います。
例えば、米軍の垂直離着陸機、オスプレイ。
この新しい機種の日本国内での運用が始められることに対して、「不安」が高まりを見せました。背景には、開発中・初期運用中の何度かの事故が報道されたことに加え、これまで見慣れた航空機やヘリコプターとは見た目が異なることがあったと思われます。
実際には客観的には、すでに国内で運用されている様々な航空機・ヘリコプターと比べても事故率は特に高いほうではないようです。ですが、このオスプレイという機種に対する「不安」が高じて「嫌い」という感情に固定化してしまったのでしょう、もっと事故率の高い他の機種は放っておいて、オスプレイの導入にだけ激しい抗議活動が起こる、という一見奇妙な事態となりました。
あるいは、放射能への「不安」。
自分や家族の健康を損なうのではないかという「不安」が高揚し、少しでも放射能に関係しそうなものは「嫌い」と思うようになった方々が少なくないように思います。
現在、市場に出回っている農産物は、全て放射能の安全基準を下回っているものになっていますが(しかもこの安全基準自体、実際に健康に影響がある水準の1万分の1程度などと極端に低く設定されています)、「東日本で作られた農産物は一切口にしない」と言う人も今でも時折耳にします。
そういった、いったん「嫌い」になった方々は、「もともと自然放射能としてずっと多くの放射能を普段から浴びているものなんですよ」とお話ししても関心を持たれません。
そして、こういった方々が「加害者」となって生じている風評被害は広範囲かつ長期に及んでおり、原発事故での一時移住による被害自体よりも大きくなりかねないほどです。
TPPによる産業構造の転換によって自分や仲間の職が危うくなることへの「不安」が高じて「嫌い」になっている方々についても同様の見方ができるでしょう。
JAや医師会など特定のグループの中で「嫌い」の感情が集団心理として凝縮した分、より強固に固定化されているようにも感じられます。
「不安」が「嫌い」となって固定化すると、「不安」の背景に対する思考が止まってしまい、「嫌い」なものを拒絶すること自体が目的になってしまいます。
極端な例では、被災地のがれき焼却に対する反対運動など、震災復興の妨害と言わざるを得ない行動でさえ正当化してしまう状況も見られました。
そうなってしまったら、「不安」の気持ちは、もう日本人が美徳とする思いやりの心を育むどころか、自分の行動によってどこか別のところで苦しむ人が生まれることへ想像力さえ奪ってしまいます。
「不安」なものを「嫌い」と判断して拒絶すると、ひととき気が楽にはなるものでしょう。
「不安」に思っていたものを「嫌い」と思い始めて思考停止していないか、それを誘うマスメディアや知人からの甘い言葉につい乗ってしまっていないか、気を付けていたいものです。
■4.本当に恐れるべきこと
ここまで、「不安」を抱いて生きる日本人を考察してきました。
では、私達は、本当に恐れるべきことをきちんと「不安」に感じられているでしょうか。
まず第一に、これから数十年間の日本の命運を左右する最大の要因として、人口の減少を挙げましょう。
バブル崩壊後の1990年代から現在2012年に至るまでの日本は、GDPは停滞し、失われた10年(Lost decade)、失われた20年ともいわれます。
ですが実際には、一人当たりGDP(GDPを人口で割ったもの)を先進国の各国と比較してみると、この期間においても一人当たりの経済成長は、大きく劣るものではありません。
(米国が1.4%/年、日本が0.8%/年; 参考:FT http://www.ft.com/cms/s/0/6152b9ca-1904-11e0-9c12-00144feab49a.html)
つまり、日本の経済力の低下は、人口の減少によるところが大きく、ひとりひとりの日本人は「失われた20年」の間もそれなりによくやってきている、と言えるのです。
逆に言えば、人口減少を反転させなければ、日本の経済力の本質的な復活は絵空事と言えるでしょう。
今後本格的に加速してゆく人口の減少は、経済の活力を削ぎ、世界の中での日本のプレゼンスを確実に低下させます。加えて、少子高齢化による人口バランスの偏りにより、若年層の負担が増すことが困難をさらに深めます。
このように、人口減少が現在の日本にとって最大の課題であることは論を待たないところです。ですが、総選挙で政治談議がかまびすしい中でも、抜本的な少子化対策を国家の最優先課題として訴える人はなかなか見当たりません。
原発やTPPのように目新しいトピックに対しては「不安」を強く抱いても、数十年かけてにじり寄る危機に対しては「不安」を忘れてしまうのでしょうか。
二つ目に、地球温暖化の話をしましょう。
これは、日本だけではなく世界全体の問題ですが、極めて深刻な課題です。
今後数十年の間に、全地球的な気候変動により、居住や農業生産に適した地域は過去千年間変わらなかった場所から着実に変動します。海面の上昇も始まるでしょう。
この結果、移住や生活の激変を強いられる人々は数千万人、数億人になることも想定しなければなりません。
感染症の発生地域の移動、食糧生産の停滞による飢饉の発生などにより、数十万人、数百万人の犠牲者が発生することも考えられるでしょう。
さらに深刻なことに、この気候変動は不可逆的、つまり元に戻すことが極めて困難なものです。
毎年世界で排出される温室効果ガスは上積みされ続け、大気中の二酸化炭素濃度は毎年上昇を続けています。子供のころの理科の教科書には大気中の二酸化炭素濃度は「0.3%」と書いてありましたが、もうこの数字は0.4%と書かなければなりません。
(参考:気象庁 http://ds.data.jma.go.jp/ghg/kanshi/ghgp/21co2.html)
温室効果ガスの排出量を25%減らすことが意欲的な目標として語られています。ですが、もしこれを実現できたとしても、温暖化の被害が25%減るわけではなく、毎年の上積み、つまり気候変動の毎年の進行が75%になるだけで、気候変動は着実に進み続け、悪化の一途をたどります。
温室効果ガスの排出量をもし仮に100%減らすことができてようやく、今既に進んでしまった異常気象は元に戻せませんが、それ以上は進行させずに食い止めることができるのです。
これほど深刻な事態が控えていても、数十年かけてにじり寄る危機に対しては、「不安」は忘れられてしまいます。
上に挙げた、影響を受ける人数を、福島原発事故の数字(移住を強いられた人が数万人、犠牲者が避難時の混乱を除いて今のところゼロ)を思い出して比べれば、あまりに桁が違う規模の深刻な課題だと容易に理解できます。
ですが、我が国は、原発事故という目新しい「不安」の高揚によって、25%の温室効果ガス削減目標さえ放棄し、この桁違いに大きな課題への真摯な対応を停止してしまいました。
三つ目に、日本の財政問題があります。
今の日本を1世帯だけの村に例えるとすると(兆円→万円)・・・
世帯年収は500万円。そのうち80万円を村役場に税金として納めています。
資産は、村の銀行に預金が1300万円、土地・建物が評価額2400万円。預金が多いので当面は安泰だと思っている状況です。
ですが実は、村の銀行は、一家の預金のうち1000万円を村役場に貸し付けています。村役場は、借りたお金のほとんどをすでに使い切っていて、100万円くらいしか実は残っていません。村役場は毎年の予算が120万円なのでお金が足りず、毎年40万円を村の銀行から新たに借りています。
(参考①:内閣府 http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/files_kakuhou.html
参考②:総務省 http://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/hakusyo/chihou/23data/23czb1-1-1.html)
つまり、一家は銀行の預金があると安心していますが、その預金はすでに村役場の中で溶けてしまっている状態です。
もうあと数年で、村の銀行に預けられている預金が底をつけばどうなるでしょうか。隣町の高利貸しからお金を借り始めて借金地獄にはまるか、それとも隣町の資産家になけなしの土地を切り売りするか。
あるいは、一家が村役場に収める税金を増やし、村役場が使う予算も減らして、この事態を避けるか。いずれにせよ、猶予は持って10年でしょうか、「今は景気がイマイチだから数年後になってから考えればいいや」とのんきに考える人はどのくらいいるでしょうか。
現実の世界に話を戻せば、「今は景気がイマイチだから、消費税を上げるなんてとんでもない」と言っている政治家は少なくありません。
これもまた、数十年かけてにじり寄る危機には、日本人の「不安」感覚が反応しなくなっていると考えなければならないのでしょう。
歴史を振り返れば、日本人はこれまでも「にじり寄る危機」に対して適切な「不安」を抱くことを苦手としてきたとも言えるでしょう。
太平洋戦争において、徐々にしかし確実に明らかになっていった戦局の悪化、挽回の困難さに対して、指導部や国民が適切な「不安」を早期に共有できなかったことが、多数の民間人を含む数百万人の犠牲者と、国としての存続の危機を招きました。
バブル経済の拡大期にも、徐々にしかし確実に明らかになっていった経済のバブル化に対する「不安」を適切に早期に共有できていれば、日本経済のダメージは大きく軽減できていたかもしれません。
■5.まとめ:適切に「不安」を語れるリーダーを
ここまで見てきたように、我々日本人は、「不安」への感度が高いゆえに繊細な心遣いを持つ文化を育んでいると同時に、ときに幻想への「不安」に突き動かされて極端な行動に走ってしまうこともあるようです。それは時に、日本人らしい他者への思いやりの心さえ置いてきぼりになるほどです。私達ひとりひとりが、「不安」とうまく付き合っていく必要があると言えそうです。
同時に、各分野で日本の主導的な役割を果たすリーダー達には、人々の「不安」をどう解きほぐすことで不幸を取り除くことができるか、「国民の総幸福量」を増やすことができるか、を考えられることが重要な能力だと言えるでしょう。
「原発」や「TPP」、「年金」、「失業」のように多くの人々に不安を惹起する事柄については、特に丁寧な説明、語りかけを工夫することが求められます。
逆に、人々の「不安」を誇大に語ってあおることは、日本で社会的リーダーの役割を果たす人々は厳に避けなければなりません。それは、「不安」の対象を「嫌い」と固定化し、適切な判断を妨げ、かえって多くの人を不幸にすることにつながります。
例えば、原発への不安をあおり、再稼働を強硬に阻止することは何につながるでしょうか。
前項でも挙げたように、原子力の代わりに化石燃料(石油や石炭、天然ガス)を大量に使用することで、地球温暖化がさらに加速してしまいます。これは、原発事故とは比較にならない桁違いに多くの人々を苦しめる修復不能の環境破壊を、しかも千年に1度の天災ではなく恒常的、半永久的に引き起こすことになります。
また、現在、原発をほぼ全て止めていることで、化石燃料の輸入高が年に数兆円という規模で膨らんでいます。これはつまり、国内で雇用などに回るはずだった国民の財産がその分だけ、代わりに中東やロシアの富豪たちの懐に回っていることを意味します。今後も毎年数兆円の国富が流出するとすると、直接雇用で数十万人分、その家族や間接効果も含めれば数百万人の雇用、生活のすべを失い続けることに相当します。これによって国民を不幸にする総量は、原発事故自体での一時移住によるものをはるかに上回り、それが毎年続くことになります。
原発事故のリスクを抱え続けるのは誰もが望まないものですし、将来的に全てを再生可能エネルギーで代替するのが理想であることも確かでしょう。
ですが、(水力を除けば)現在は全体の1%程度でしかない再生可能エネルギーが日本のエネルギーの主力となるほどに拡大するまでの間、化石燃料に大量に頼り続けるのは、原発事故そのものよりはるかに多くの人々を不幸にしてしまうのです。
それでもなお、放射能への不安をあおり、「原発再稼働断固阻止」を声高に訴えるのは、いったい誰のためでしょうか。本人は意識していないにせよ、それはもはや、不安感の高揚に身を任せ、自分自身や家族の不安さえ解消できればその陰での他者の不幸を忘れてしまう、露骨なエゴイズムになってしまってはいないでしょうか。
TPPへの不安をあおる人々、消費税増税への不安をあおる人々に関しても、同じ構図が見て取れます。
社会のリーダーとしてすべきことは、誰もが感じる自分の将来への不安を感情的にさらに膨らませることでしょうか。そうではなく、不安を丁寧に解きほぐしながら、より多くの人々に不幸がもたらされる事態を避けることではないでしょうか。
そして一方で、日本のリーダー達には同時に、日本人が「不安」を感じることを忘れてしまいがちな「にじり寄る本当の危機」に対して、その事態の深刻さを的確に理解し、それを多くの人々が納得できるよう丁寧に語りかけられることも重要だと言えるでしょう。
前項で挙げた、「人口減少」、「地球温暖化」、「財政危機」の3つの例はいずれも、現在において、徐々にしかし既に確実に明らかになっている重大な危機です。これらに対して、適切な「不安」をどこまで共有できるかどうか、それが、日本という国、その運命共同体である私達日本人の命運を大きく左右することになるでしょう。
過剰な「不安」や「嫌い」の心理を丁寧に解きほぐすこと。同時に、「にじり寄る危機」への「不安」を適切に喚起すること。
その両方をきちんと語れることが、日本の進む指針を考えるリーダー達が備えるべき能力だと思います。
これが、社会的課題が高度に複雑化する現在・今後の日本において、現代的な意味での「ノブレス・オブリージュ」を自覚するひとりひとりが果たす役割として認識すべきことだと思うのです。