自分の現在地、20の原則

この個人的メモの意図は、今現在、自分が依って立つ原則、 ”Principles of My Life” を書き出すことです。

日々の経験や見聞の中で、この考え方は自分の人生として大事にしよう、と思う事柄がいつの間にか溜まっていくもの。そういった「自分のルール」を書き出して整理し、それを以てまた自分の次のステップに投影していく。3、4年間隔でそんな習慣を作ってみようと思っている次第です。

8年前は、職業選択を幼少の頃以来の計画から転換する決断をした時期でした。4年前は、職業人として3年間経過し、大きな病気も経験した時期でした。今、三十而立の歳を越え、「而立」を形にし始めている時期の記録が本稿です。

なお、本稿は、自問自答、自省自戒の性質ゆえ、以下では丁寧語や平易に噛み砕いた説明、背景記述は省略して、ごく簡潔な文体で書いていますので無礼をお許しください。また、これは筆者が自らに課すものと想定して書くものであって、個々の事情を顧みずにそのまま他の人に適用することを想定するものではありません。

 


■1. 人の役に立って食っていく

何らかの形で人の役に立ち、その対価を受け取ってそれで自分も食っていく。それこそが、貨幣経済が生まれる前の古代から21世紀の現代も変わらない、社会の最も基本的な摂理だと考えよう。全ての仕事の目的は、誰か人様の役に立つこと。

この原則を理解している人をこそ、社会に生きる人、「社会人」と称したい。職業に貴賎なしと言うが、この原則を共有できない人は賎しいと感じてしまう。徴収財源から受け取る給料、アービトラージで掠めるカネなどに満たされると、よほど注意しないとこの原則を忘れ盲目になる。

世の中には秀才の役立たずも数知れない。本当の職業人は、どうすれば人の役に立てるか、人生を賭して追求し模索し続けている。そして価値を理解する人には本物の価値を提供できるし、きちんと人の役に立てる価値を提供したときは恥じることなく奢ることなく正当な対価を受け取る。

■2. 個人名義で生きる

「○○会社○○課長」ではなく、「○○さん」と頼りにされ頼まれる存在として生きていく。所属や肩書ではなく、個人の名義で生きていくということ。

自分の仕事、自分の成果、自分の履歴がある。それを通して、感謝すべき人・信頼すべき人がいて、感謝してくれる人・信頼してくれる人がいる。この積み重ねこそが人生。個人名義でない仕事、つまり個人名ではなく社名や肩書名を相手にされ、他の人に頼んでも変わらないと思われる仕事に費やす時間は、そこに積み重ねることが出来ない。

世の人は、大企業の社員や公務員、国家資格の士業が安定していて良いと言う。本当か。経営破綻や株主の心変わり、政策や制度変更など、不可抗力で自分が無価値になる。そんな不安定さに自分の人生を委ねたいとは思えない。

■3. 交換不可能な人材になる

社会は「誰もが特別なオンリーワン」で済むような生易しい世界ではない。「人の役に立つ方法」のどんなに狭くても少なくとも一つの領域において、自分が圧倒的なナンバーワンでなければいけない。それによって初めて、自分にしか出来ない事柄が生まれ、個人名義で生きることが可能になる。

交換可能な人材でいる限り、仕事は辛いものであり続ける。交換不可能になるとは、あらゆる交渉権を自らに引き戻すことでもあり、それは人生の自律性を取り戻すことでもある。それを可能にするのは交換不可能性であって、起業や独立といった外形では必ずしもない。

事業組織の運営者は、「社員Aさんが去ると立ち行かず倒産する」では済まない。それ故、必然的に「高性能でも替えの効く人材」を在庫として揃えるのが企業経営としては正しい。交換不可能な人材になるとは、会社の利害とも対立し自分の身一つで道を拓く覚悟を必要とすること。

■4. 仕事を地道に積み重ねる

どんな地味な機会であれ、妥協せず自分の署名に恥じない仕事を残すこと。それを積み重ねていれば、どこかで眼力のある人が、たまたま目に留まったときにその価値を見抜いてくれる。その縁が、また次の機会を招いてくれる。

自分は努力したのにと不平を漏らす人は多い。しかし努力したこと自体には何の価値もない。それが結果を生んで初めて価値が生じる。でも、だからこそ、頼まれずとも妥協せずに力を尽くして極致を求める。その追究がいつしか他の追従を許さない世界を形作る。

営業機会や人脈を探してばかりいる人は、眼力のない人をうまく言いくるめることに長けていく。顧客リストが最大の資産だと言い、自分の顧客を取られると不信感を露わにする。虚勢は張るが自分自身に自信を持てず、職業人としての美学も築けない哀れな人。

■5. 誠実さを崩す必要はない

生来の真面目さ誠実さはそのままに自然体でいるのが一番良い。下手に職業人格を作って過剰な気遣いを見せようとしても疲れるだけ。自然体で内容自体に集中していた仕事のほうが結局は高く評価してもらえる。その性格も含めて好いてくれる人と自然に縁が広がる。逆に、人から評価されなければと気にしてしまった時に一番自分が駄目になる。

心理的な交渉術を繰り出して出し抜こうとする人。媚びへつらって好条件を引き出そうとする人。そういう人工的な感情表現を得意げに使う人達と付き合うのが最も気が滅入る瞬間。それなら無理に付き合い続ける必要はない。それが個人名義で生きるということ。

価値を生まず掠めるだけの短絡的な儲け話からは、その場では損をしてでも距離を置いたほうがよい。単に正義を気取るのではない。自分にとって一番貴重なのは自分の頭を使える有限の時間。悪だくみとその隠し立てに思考時間を浪費するのは、創造的思考への時間の投資を妨げる嫌悪すべき無駄。

■6. 愚者への怒りで自らを拘束しない

人間不信に陥る経験をすることもある。既に完了した仕事の報酬を約束通りに請求すると、「感情的に払いたくない」と意味不明な回答を受ける。職業人としてこれ以上ない侮辱。約束を守る云々など小学生レベル以下の人をビジネスパートナーとして信用していたことに唖然。屈辱。怒り。軽蔑。自分へのあきれ。

でも、そんな愚者への怒りに頭を支配されること自体、自分の時間の全く不毛な損失ではないか。怒りの感情に自らを拘束されるのではなく、早々に絶縁してそれ以上関わらず、つとめて忘却し、次の世界を考えることにさっさと頭を切り替えよう。

負の感情の力はとても強い。身を任せると四六時中頭を支配する魔力を持つ。社会問題などでも同じで、「義憤」は一時的には高揚感をもたらすが、過度に没頭すると自らを見失う。義憤を感じ正義を叫びたい衝動にかられたときは、まず一呼吸おいてそれは創造的かと自らに問う。

■7. 志はライフワークの大枠として

一度きりの人生、何かを成し遂げたと言える「ライフワーク」を持ちたい。一方で、その時々で手掛けることが出来る仕事は、人や機会など偶然の縁によってジグザグで進むもの。一つ一つはジグザグで良いのだけれど、大枠としてはある一定の方向に進む仕事を手掛け、社会をその一定の方向に変えることに貢献したい。そのライフワークの大枠を、自らの「志」として持ち続けよう。その大枠を持っていさえすれば、ジグザグに左斜め右斜めではあっても、着実に「志」に向かって前に進み続ける。

志はと聞かれれば答えられるようにはしておこう。自分にとって現時点でそれは、『サイエンスの思考体系を自然科学以外の身近で重要な対象(例えば社会課題や企業経営)に適用する価値を普及させること(、それによって不条理を排し誰もが現代文明を享受できる社会作りに貢献すること)』。ただこれ自体は、ジグザグな道の大枠、方向を示す道標になっていればよい。

■8. 行動と経験への好奇心

「好奇心を大事にしよう」とよく言うけれど、知識や発見への好奇心を持ち続けるのはそれほど難しくない。人生の豊かさを決定付けるのは、それに加えて行動や経験への好奇心を持てるかどうか。

今まで経験したことがなかった新しい働き方を務める機会があれば、それは自分の専門外・担当外だとは言わずに、取りあえず好奇心を持って一度は見よう見まねでやってみる。新しい場所、新しい人、新しい内容、新しい技術。頭で知識として知ることができればそれで十分と考えがちだけど、自分自身で経験して初めて見えてくる世界観が必ずある。

知識への好奇心と違って経験への好奇心は、本の次のページを開けばいいものではない。やっぱり最初は不安だし怖い。一歩踏み出すとっさの度胸が必要。でも取りあえずやってみよう。その一瞬の度胸の積み重ねがいずれ大きな差を作る。

■9. 率先して失敗しよう

「私、成長したいんです」、「成功体験を積みたい」、と言う人が多い。実際のところ「成長」とは「慣れと気づき」、それ以上のものではない。ワーカホリックでマゾヒストな人達の「成長」幻想に惑わされてもあまり得はしない。

自分にとっては「慣れと気づき」に大事なのは、失敗体験を一回でも多く自分で体験すること。成功体験でもなく、上司が偉そうに語るフィードバックに聞き飽きることでもない。成功体験は、今まで信じていたことの追証を得られるだけ。失敗体験は、今まで信じてきたことをひっくり返してくれる。

もっと若い頃は、万一失敗したらと不安で緊張してビクビクしていた。いつからか、むしろ失敗を経験するチャンスだと考えられるようになった頃から、目に映る世界が変わってきた。

ただ難しいのは、対価を受け取って成果を約束している時は、思う存分には失敗体験をしにくいこと。だから、タダで失敗体験ができる場はとても貴重。機会を見つけたら欠かさずに飛びつこう。

■10. 誰も考えていないことを生み出す

自分の「人の役に立つ」貢献量をスケールアップする道は二つ。大勢の人の行動を預る立場になること、そして大勢の行動や思考を変える新しいものを生み出すこと。前者は「マネジメント」、「出世」と言って目指す人が多いけれど、自分にしか出来ないことをするには後者が欠かせないし、まず断然楽しい。

誰も考えていなかった視点を鮮やかに描いて見せると、みんな今まで誰も見えていなかった世界に目を見開いて考え始める。誰も考えていなかった社会の仕組みやビジネスモデルを設計すると、大勢の人の働き方や生活まで新しくなる。

そのためには、「普通でいたい」「みんなと同じじゃないと不安」なんてありえない。お役所にありがちな先例踏襲主義もありえない。既に存在する肩書で表現できる働き方の定型なんて気にしない。自分自身が持つ常識も時にひっくり返してみる。誰の目にもまだ見えていない世界に常に目を凝らしていよう。

■11. 指導的立場の自覚

「ノブレス・オブリージュ」。社会の中で指導的立場を務めることの自覚と責任意識。

現代社会において、リーダーシップを執るのは権利というよりも責任。一定の能力水準が必要であり、誰もが担える役割ではないからこそ、それを担える人間はその役割を果たして社会に貢献することが求められる。船頭を出来る人間も漕ぎ手ばかりしている船は乗組員共々迷走して遭難する。

良い意味で「上から目線」を持とう。ちょっと視点の高い発言をすると「あいつ上から目線だ」と揶揄する人がいる。だが、普段から高い視点で見渡す意識を訓練しておかないと、必要になったときに俯瞰的な意思決定が狂ってしまい、却って多くの人に迷惑を掛けることになる。

偉そうにすればよいのではない、行き先を照らす先導役を謙虚に務めるのだ。そのためには時代を見通していなければいけない。時代の潮流はどこに向かってるか。今の時代だからこそ大事なことは何か。自分自身で考えた明瞭な大局観を持たなければいけない。

■12. 過去ではなく未来を見る

「我事に於いて後悔せず」。過去の失敗をどんなに悔しがっても、後からは少しも変えることは出来ない。でも、そこから教訓を学び取って、これから未来の成功を重ねていくことは出来る。過去の考察は、後悔のためではなく、未来を設計するためにこそ行うべきだ。

「守・破・離」。古典や定跡、流儀など過去から評価され続けているものには必ず一定の真理が含まれる。まずはそれを倣って虚心坦懐に学ぶが、真似を完璧に出来たと満足してはいけない。その本質を看破して消化し、自分の頭で徹底的に考える。過去は過去とし、未来は未来でゼロから描き出す。

「ここでは過去にこうしていた」を当然のことと思い込んではいけない。未来の創造者は、「未来の当然」を作り出し、それが現在に生きる者には「変化」として見えるだけだ。

■13. 自分と違うものを持つ人への敬意

日々、様々な方と知り合う。色んなことを教えていただいたり気づかせていただいたり。

敬意を持つ基準はシンプルに、自分が持たないものを持つ人であること。自分には出来ないことを出来る技能を教えていただいた方、自分には思いつかなかった視点に気づかせていただいた方には一律に敬意を感じる。その人はきっと自分が持たない経験を持っていて、自分には見えていない価値観や世界観が見えている、それだけでもう敬意を払わなければと思う。これはその人の年齢、性別、職業、社会的地位その他に一切関係なく。

逆に、これを共有できない人は応対に困る。体育会的な上下関係や企業組織内の上下関係をそのまま持ち込んで、自分より上、自分より下と区別して態度を変える人。偉そうに振舞う人ほど、組織に依らない価値を持たない弱い人。

■14. 頼り頼られ感謝する

誰しも、お互いに出来ることはそれぞれ異なる。手を貸してもらうととても助かるときもあれば、対価なしに人の役に立つ余裕があるときもある。些細な場面でお互いに役に立ち合えれば、とても幸せな関係になれる。

そして、ギブとテイクの交渉成立を急ぐのではなく、まずは与える側になろう。出し惜しみはせずに。役立つノウハウは抱え込まずに広く教えてあげよう。きっと役立つネットワークは労を惜しまずに紹介しよう。取りあえず感謝してもらえればそれで十分。

与えた分は返せ、いい話を紹介したら礼を寄こせ、と言う人には窮屈を覚えてしまう。お互いに頼り頼られ感謝して、情けは人の為ならずでいずれどこかで返ってくる、それくらいの関係が心地良い。

お世話になったことは自分ではしっかりと覚えておこう。恩人や師、苦境の時に傍にいてくれた人。どこかでその恩をお返しできた時は自分自身も本当に嬉しい。

■15. 多層的な帰属意識

「愛国」大好きな人がいる。「愛社」大好きな人がいる。一つの枠への帰属意識に執着する人はきっと、内心はとても不安で、その帰属以外に自信を持てるところがないことが露呈しないかと常に恐れている。

誰しも本来は多層的な帰属を持っている。地理的な帰属で言えば、出身地、県、地方、国、大陸、世界。コミュニティへの帰属で言えば、勤め先の同僚、母校の同窓、友人達、家族。その各々が、帰属意識と愛着を持つことで自分のアイデンティティとなり心の拠り所となる。

自分の多層的な帰属それぞれに幅広く愛着を持っていよう。国やら会社やら特定の一階層への偏執的な執着は、排他意識、敵対意識を生み、とても付き合いづらい人になる。

■16. 未知をもらう出会い、安心をもらう旧知

振り返って考えてみると、未知だった世界が大きく広がったのは、じっくり語り合って共鳴する人が出来たとき。でも思い起こすと、最初に出会った場では挨拶する程度で、ここから広がるとは思っていなかったことも多い。

内心では、一度に大勢の人と盛り上がるような場は苦手。誘われても億劫だなぁと思ってしまう。でも、過去に気まぐれで行ったときに出会った人と縁が広がったことを思い出して、足は重いけど行ってみる。また未知の出会いがあって、億劫に任せていたらこの縁はなかったと思い返す。

一方で、旧知の友人との時間は、何物にも代えがたい束の間の安息になる。見返りなど気にせずとも揺らぐことのない信頼と安心感は、幾年の時を越えて共有しているものがあるからこそ。

■17. 楽しさ悲しさを共有できる喜び

どんな大きな志や野心を語っていても、無上の喜びは最も近いところにある。ごく近しい人と共有する時間。楽しさ悲しさを単に共有するだけで安堵を得られる安心感。

共有する事柄や時間、感情が多くなればなるほど、言葉に出さずとも分かることが増えてくる。それと同時に、すれ違いを認識する機会も増える。時に辛い思いをすることもある。心底傷つけてしまい申し訳なく思うこともある。相手を思えばこそ、別の道を選ぶこともある。

そんな部分も含めて、起伏の連続自体が人生の醍醐味だと考えよう。人と距離が近くなること自体を避ければ、感情の振れ幅に思い悩むことも、楽しさ悲しさを共有する喜びもなくなる。そんな人生が何になるだろう。

■18. 痛みを知る故のしなやかさ

病気の経験から受けた影響はやはり小さくなかったと思う。

他者の痛みは、自らもその痛みを経験しない限り、本当にその辛さを思い測ることはできない。痛みを経験するとは、人生の深さを思い知ること。その辛さを共有して優しく接することのできる相手が増えること。一見平静を装っている人が抱えている辛さを想像できる幅が広がること。

痛みを経験すると、その痛みを取り除く人に対して畏敬と感謝の念を持つようになる。その痛みがない「普通」の状態がそれだけで貴重な幸せだと感じられるようになる。「普通」に日々の活動に没頭できるだけでもう十分なのだから、それに比べれば取るに足らないリスクなど恐れず、強くしなやかに思考し行動できるようになる。

■19. 好調も不調も人生の波

人生80年とすると約3万日、今日という日は一度しか来ない、一日一日を大事にしよう、と言われる。でも、人生の全ての日が充実した輝かしい日になるなんてありえない。

何でもうまく回り始めたような全能感の高揚に浸るときもある。全く何もうまくいかず、自分の意思では何もしようのない運命の絶望感に打ちひしがれるときもある。でもどちらも、長かったり短かったりはするけれど、終わりなく続くことはない。禍福は糾える縄の如く、誰の元にも交互にやってくる。

絶望の淵で耐えるしかない期間は、様々な人に迷惑を掛けお世話になり、感謝の念を深くするときでもある。嵐が過ぎて晴れ間が見えてきたとき、その空は前に見た晴天とはまた違って見えるようになる。

■20. ちっぽけな存在だと思い知る

人生80年、一度きり。自分にとっては無二のもの。なのに自分の人生で達成できることなんて大したことないじゃないか、社会の不条理の中で自分なんて無意味だ、と絶望したがる人もいる。

もっと広い世界を見てみよう。自分は、地球上に70億人いるうちの1人。地球に生命が生まれて40億年、幾億世代を経てきた先に今地球上にいる1世代。その地球を抱える太陽系と同等のものはこの銀河系に数千億個あり、その銀河系と同等のものはこの宇宙に少なくとも数千億個ある。

ソクラテスは「無知の知」と言った。2千年経た現在、我々は科学の成果によって圧倒的な事実を知っている。哲学者を気取るまでもなく、知れば知るほど自分という存在のちっぽけさを理解できる。

自分なんて本当にちっぽけな存在。でも自分にとってはそれは唯一無二の存在。そこまで理解した上で、自分の今を生きる。


 

以上、少々偉そうに書いていても自分で出来ていないことだらけで、でも未完成で前に進み積み重ね続けるのもまた人生だと思うことにしましょう。今のところはここまでです。最後まで読んでいただいた方には一つ二つでも何か気づきを得ていただいていたら幸いです。

 

「現在」の所在地

前回稿では『「不安」を抱く日本』と題して、不安と不満の対比から「もう一つの」日本社会像を描いてみました。

常々書きたいと思っているのは、多くの人に視野が《ふっ》と広がる感覚を届けられる「もう一つの視点」です。

今回は題して『「現在」の所在地』。

自分のキャリアの位置を考えるために、数十年、数百年の単位で「現在の潮目」を見つめる、「もう一つの視点」を探す試みです。


目次:
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■ 0.導入: 「現在」の向かう先
■ 1.「第三次産業革命の浸透期」
■ 2.インターネット時代の「ソーシャルの次」
■ 3.まとめ
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■ 0.導入: 「現在」の向かう先

これを考え始めたきっかけは、何年か前、自分のキャリアの方向性について考え込んでいたときでした。

自分の一生を賭ける職業を選択するために重要なこととして、2つの要素を考え始めました。一つ目は、「人の役に立つことで自分ができることは何か」、もう一つは、「自分がしたいこと、するべきだと思うことは何か」。

仕事というのは本質的に、人様の役に立つことをして、その対価を受け取ることです。ですから、自分が出来ることで人様の役に立つのは何か、と考える前者は必然的な起点だと思います。そして後者つまり、本当にいい仕事をして後に残るものを作るためには、仮に否定する人がいても信じ続ける志や、そのことを考え出すと夢中になって没頭するほどの執着が必要でもあると思います。

この2つの要素以外にも、「一緒に働きたいと思える仲間と会えるか」や「どんなライフスタイルを望むか」などもあるでしょう。ですが、これらは偶然の縁だったり、時間とともに刻々と変わるものであったりしますから、当然考慮に入るとはいえ、自分のキャリアを通したライフワークの基軸を選択するときは、やはり先の2要素を主軸に考えるべきと思います。

・・・などと考えながら、いやいや、3つ目の要素として、「今の時代がどこへ向かうのか」も考えに入れなくては、と思ったのです。

自分のキャリアを構成する時間はざっと20代から60代までの50年間ほど。最も影響力の大きな仕事をできるのは40-50代でしょうか。この50年間は、「2000年代から2050年代まで」のように西暦で両端が決まる明確な時間区間です。

この時間区間は、親や先輩が通った過去と同じでは決してありません。自分のキャリアが収まるこの時間区間に時代はどこへ向かうのか、その定見を持たずして、その上に乗っかる職業の選択は何がベストかなんて考えられないじゃないか、と思ったのです。

 

なお、時代による環境の変化は、二つの要素に切り分けられます。一つは、世界全体としての変化。もう一つは、地理的な情勢の変化。後者に属する「米中の軍事・経済バランス」、「ランドパワーとシーパワー」などのトピックはいったん置いておいて、まずは前者、地理的バランスには依らない普遍的な変化から考え始めるべきだと思います。

以下では、時間スケールの異なる2つのストーリーをご紹介します。一つ目は、イギリス産業革命から三百年とその先のお話。二つ目は、インターネット時代の三十年とその先のお話。

 

 

■ 1.「第三次産業革命の浸透期」

「現在」は、どのような時でしょうか。

歴史学者が学問上の客観性を持って定義するものでもなく、新聞記者が世間を賑わせたヘッドラインの変遷をまとめるものでもなく。自分の人生、特に職業観を築き、自分自身の数十年間を注ぎ込む「ライフワーク」を設定するための認識として。

「現在」の所在地を読み取る大きなヒントとして、職場、働き方、価値の生み出し方を一変させた、過去の何度かの波を考えてみましょう。

 

・第一の波

そもそも「職場で働く」という感覚は最初からあったわけではなく、それが本格的に広がるのは、産業革命が契機だったのだろうと思います。一般的に、産業革命は1760年代から1840年代頃までの間にイギリスを端緒として、紡績機や蒸気機関が発明され、普及し、家内制手工業から工場制機械工業に移ったことを指すわけです。

産業革命以前にも「職業」と呼べるものは存在していたはずです。神官に兵士、鍛冶屋、織物屋、農民、漁師、商人。それでもまだ、多くの人は今で言えば個人事業主、家業という感覚でしょうか。そして産業革命は、多くの労働者が、家を出て工場に集まって働く、という労働形態を浸透させたわけです。現代につながる職住分離、つまり住居と職場が別にあって毎日通勤する、という働き方がこのとき出来上がったと言えるでしょう。「職場」が広く成立し、「働き方」が大きく転換したのです。

技術的な面から言えば、産業革命は、「価値の生み出し方」の転換によって生じました。それまでは手作業で行っていた仕事が、紡績機などの機械を使って行えるようになりました。エネルギー源も、人力に代わって、水車などの水力、燃料を燃やす蒸気機関などに置き換えられました。

この産業革命の過程を、年表を眺めて時間軸で考えてみましょう。

1760年代から1840年代までの約80-90年間のうち、まず先行したのは、「基礎的な技術の発明」のフェーズ。1764年ジェニー紡績機発明、1769-85年ワット蒸気機関発明、1784年パトル製鉄法発明、1785年カートライト力織機発明。少し遅れて汽船や機関車も発明されました。

次に、技術の発明は一段落する一方、「技術の活用による産業の確立」のフェーズに移ります。1786年の英仏通商条約で貿易が自由化され、1800年代にはイギリスの工業生産、貿易高が数倍に急拡大。1825年にはイギリスがそれまで禁じていた機械の輸出を解禁しています。綿織物工業の大量生産が確立し、鉄道業も生まれました。

そして、3つめのフェーズとして、「個人の生活や社会構造の転換」にまで進んでいきます。1810年代には機械による失業に反発する機械打ち壊し(ラッダイト)運動。そして工場労働者を守る工場法が1802、1833、1844、1847年などに順次整備されました。時間給の賃金労働が浸透し、労働者は農村を離れて工場に集まり、近代的な意味の「都市」が現れました。

『レ・ミゼラブル』でファンティーヌがマドレーヌ氏(ジャン=バルジャン)の工場で働いていた場面の舞台は1820年前後。経営者層と労働者層の分離が進んだ時代でもありました。王侯貴族以外の市民が、「ブルジョア(資本家)」と「プロレタリア(労働者)」に分かれたのです。

 

・第二の波

このイギリスの「産業革命」は、工場で雇用されて機械の動かし手として働くという、それまでとは職場、働き方、価値の生み出し方を変えるものでした。続いて、第一波の産業革命が世界に波及した頃、現代の働き方にさらに大きく近づく第二の転換が起こります。

数万人から数十万人が働いて大量生産を実現する大企業が生まれ、その巨大な規模を運営するために多層的・官僚的な会社組織が築かれた時代。それは、それまでの経営者層と労働者層との間に、その巨大組織を運営するための大量の事務労働者を必要とするようになる転換でもありました。被雇用者が「ホワイトカラー=事務労働者」と「ブルーカラー=身体労働者」に分かれたのです。

第一の波たるイギリス産業革命は軽工業の成立劇だったのに対し、この第二の波を生んだのは重工業の成立を原動力とし、1850年代から1930年代頃、ドイツやアメリカを主な舞台とする出来事でした。

その過程を第一の波と比定して見てみましょう。

まず1番目の「基礎的な技術の発明」のフェーズ。まず、一連の電気技術。ファラデーやマクスウェルが整備した電磁理論の理解を背景に、1866年にジーメンスが発電機、1876年にベルが電話、1879年にエジソンが白熱電球を発明。もう一つに、石油動力の実現。1850-70年代に内燃機関が成立、1883年にダイムラー・ベンツが自動車を作り、1903年にライト兄弟が飛行機を作りました。

続いて2番目の「技術の活用による産業の確立」のフェーズ。自動車製造業のフォード(1903;現同社)、石油業のロックフェラー(1870;現在のエクソンモービル、シェブロン、BPアモコ)、鉄鋼業のカーネギー(1901;現在のUSスチール)、通信業のベル(1885;現在のAT&T、ベライゾン)、電機業のエジソン(1889;現在のGE)など、アメリカ近代史を飾り現代にも連なる巨大企業が生まれました。

そして3番目の「個人の生活や社会構造の転換」のフェーズ。電車や自動車で通勤し、会社ではピラミッド型の組織で上司や部下に挟まれたホワイトカラーの事務職として働く、という現代に通じる「会社員」の生活が定まったのがこの頃だったでしょう。

また、巨大資本への蓄積が進み、ウォール街ではモルガン財閥やゴールドマン=サックスが成立。企業が株式市場を通じて所有され取引される現代的な資本主義社会が確立したのがこの時期だと言えるでしょう。NYSEの取引高は1900年前後の数年間で数倍に急拡大し、そして1929年の大暴落に端を発する世界恐慌に至ります。

 

・第三の波

世界恐慌と世界大戦という混乱期を経た戦後。

第一次産業革命は水車や蒸気機関、第二次産業革命は石油や電力と、エネルギー源の変化が大きな特徴でした。そこから単純に延長すると、第三次産業革命は原子力エネルギーが突き動かすと当時の人は考えていたのだろうと思います。ですが、現代に生きる我々には、第三次産業革命はもはやエネルギー源の変化ではなく、電子工学の誕生による情報革命であったことは異論の余地なく明らかです。

第一次、第二次の産業革命がそれぞれ約80年間の期間に渡り、基礎技術の誕生から社会構造の変化までの波及過程をたどったことを思い出すと、混沌の時代と言われがちな現代史は、とたんに明瞭に、歴史の必然が「みたび」繰り返されている時代に思えてきます。

1番目の「基礎的な技術の発明」のフェーズ。1946年完成のENIAC(最初のコンピュータ)開発。1945年頃のノイマン型コンピュータの発案。1947年のトランジスタ発明。1958年のIC(集積回路)発明。1970年頃のRDB(リレーショナルデータベース)の発案。1969年にはARPANET(のちのインターネット)が開始。ハードウェアで言えば、1952年に初の商用コンピュータ(IBM)、1964年にメインフレーム(IBM)、1977年にパソコン(Apple)が発売されています。

2番目の「技術の活用による産業の確立」フェーズ。初期に設立されたIBMやHPといったハードウェアメーカーに続いて、1970年代にはApple、Microsoftが設立。1982年の任天堂のファミコン発売がエンタメ分野の嚆矢。さらにサービス面でも、1988年に商用インターネットが開始され、1995年にAmazon、1997年にGoogle、2005年にFacebookがサービス開始。B2Bでも、ERPやCRMが開発され普及したのは1990年代です。

3番目の「個人の生活や社会構造の転換」のフェーズ。ホワイトカラー事務職の仕事の多くが、コンピュータの画面に向かって情報を扱い、飛び交うEメールを処理する時間へと姿を変えたのは1990年代頃からでしょうか。情報通信技術のおかげで、満員電車や交通渋滞の中を通勤する必然性が薄くなり、分散型の働き方が徐々に広がりつつあります。

情報機器によって事務作業の多くが置き換えられた結果、ホワイトカラーの事務職は残酷なほどに二分化されるに至っています。コンピュータで置き換えられない、意思決定・戦略策定に関わる仕事や高度な専門職など、ごく少数のホワイトカラーが極端に付加価値の高い職に従事し、高給取りになっています。一方、コンピュータに置き変わらないもう一つの事務職群である対人の仕事も残っています。営業マン、中間管理職、そして人とコンピュータの間に立つSE。これらの職は、高度な専門性を持つごく一部を除いては、付加価値の低い労働を強いられています。この二分化こそが、流行語のように言われる「格差社会」の正体なのではないかと思います。

また、情報入手・通信のフラット化が進んだ結果、企業の巨大組織に所属することが必須条件ではなくなり、小規模ないし個人でも一流のスペシャリストとして仕事をする素地が生まれていることも注目に値します。ホワイトカラー上層の高度事務職は、人材としての置換困難性(irreplaceability)の高さを活かして、もはや組織から自由にさえなろうとしているのです。一方で、ホワイトカラー下層の単純事務職は、相変わらずリストラで放出されることに怯えなければならない環境にあります。

 

・「情報革命の浸透期」を生きる

第一次、第二次の産業革命と同じパターンの3フェーズ80年のサイクルが繰り返しているように見えるこの第三次の産業革命。同じようにサイクルを時間軸に振るのであれば、1950年代に始まった波は2030年代頃までをサイクルとし、2010年代の「現在」はその浸透・成熟期にあると見ることができます。基本的な技術革新や事業創造は既に一段落しており、それらによってもたらされた社会構造や働き方の転換が浸透してゆくときだということです。

この比定を信じるなら、いくつかの「予言」、21世紀の社会観・職業観への示唆が導かれます。

まず、「技術革新」をキャリアの中心にしたいのであれば、情報革命の単純な延長線上にあるテーマでは、時代を画するほどの革新は望みにくいと考えられます。情報革命が始まって既に60年、トランジスタやIC、プログラミングやRDBなど「情報革命の第一フェーズ」で現れた技術革新に並ぶほどの根本的な発明は既に尽くされていると考えるのが自然です。ソーシャル、拡張現実(AR)、ビッグデータ、O2O、ジオロケーションなど現在ホットだとされている分野も、革新的な技術が生まれるというよりは既存の情報技術を横展開して活用の幅を広げる類の話だと言うべきでしょう。

人類の次の時代を切り開くほどの技術革新を起こしたいのであれば、それはまだ見ぬ「第四次産業革命」の第一フェーズになることでしょう。単純に過去を延長すればそれは2030-50年頃に始まるのでしょうか。働き方や社会構造までも変えるそれは、次世代のエネルギー利用術、革新的な生体技術、脳科学の革命など、今でも多少想像できるものでしょうか、それとも全く予想外のものでしょうか。第三次産業革命が自然な延長の予想を裏切るものであったことを考えれば、それを見抜くにはより深い洞察を必要とすることでしょう。

次に、「事業創出」をキャリアの中心にしたいのであれば、IBM、Apple、Microsoft、Amazon、Googleなど「情報革命の第二フェーズ」が生んだITの巨人に並ぶほどの新しいビジネスモデルを新たに生み出すのは、もはや可能性は小さくなる一方と言えるでしょう。ただし、プレーヤーが変わることは十分あり得ます。「第二次産業革命」でも、先発のフォード・GMを後発のトヨタが追い抜き、先発のGEが築いた電機産業がソニーやサムソンに入れ替わりました。「情報革命の成熟期」が続くと思われる今後数十年間は、情報産業の既存のビジネスモデルを改良しより成熟させ洗練させることがビジネスの主戦場になると予想できます。

そして、目下進行中の第三フェーズ「個人の生活や社会構造の転換」を掴む仕事にこそ、時宜を捉えた実り多いライフワークの選択があるのではないか、という考えに至ります。

情報機器が事務作業の多くを置き換えた結果、より高度で複雑な情報処理や意思決定をシンプルに直感的に行える限られたごく少数の人材に、高等事務職としてさらに負担が集中する傾向が続くでしょう。そのため、法律、会計、経営戦略、ITなど様々な面で高等事務職に関わるB2Bサービスは、全体としての重要性はいよいよ増しつつ、この時代の変化に合わせて重点を移していくことが求められます。

第一次、第二次産業革命を通じて「個人」から「会社」へと重心が移動してきた動きは反転し、需給バランスが売り手市場に傾く高等事務職は、組織のくびきを離れて流動化が加速するでしょう。個人として高い能力を持つ高等事務職が流動し、それと会社とを結びつける機能には業界として大いに伸びしろが期待できるでしょう。第一次産業革命が生んだ「会社に集う」ワークスタイルは情報技術の成熟によって一転してその必然性が低下し、高等事務職の個人化の動きと相まって、分散型の働き方がさらに広がることでしょう。

高等事務職と単純事務職の乖離は、社会問題、教育問題にも大きな影響を与えることでしょう。職業経営者を含む高等事務職は少数に負担が集中するために子育てなど生活との両立が課題になる一方、単純事務職は「ワーキングプア」「下流社会」の世界が現実味を帯びてきます。高等事務職を担う有能な人材を育てることが国の競争力を分ける一方、大卒の人材の大半が高等事務職になり得ない現実は教育制度全体を揺さぶります。

 

・イノベーションリーダーになれない日本

この節の最後に、少し日本のことについて。

江戸時代の鎖国を解いた日本は、幕末・明治維新でイギリスから1世紀遅れて「第一次産業革命=軽工業革命」を開始し、繊維工業大国となりました。さらに、日清・日露戦争の前後に「第二次産業革命=重工業革命」に進み、第二次大戦の前には世界に追い付いたと言ってよいでしょう。いくつもの要素が重なって、倍速回しの奇跡的なキャッチアップを見せたわけです。

戦後の混乱期を経て、日本は「第三次産業革命=情報革命」でもまたも後追いの立場となりました。自動車や電機ではキャッチアップして大きなシェアを手にしたものの、MicrosoftもGoogleもFacebookも日本発で生み出すことができませんでした。キャッチアップは上手でも、三周目でもまた日本は世界のイノベーションリーダーになれずにいます。

「第一次」の舞台はイギリス、「第二次」はドイツとアメリカ、「第三次」はアメリカの独擅場だったと言えるでしょう。「第四次」が引き続いてアメリカによる主導となる必然性はなく、どこが舞台となるのか見通すことはできません。

「日本は高齢化の進む課題先進国だから、課題解決先進国となろう」とも言われます。この発想自体は今の日本の空気によく合うものと思います。ですが、むしろ大きく前を向いて、日本発の「第四次産業革命」で次の時代を拓くことを目指せないものでしょうか。今度こそ日本には鎖国も敗戦もなく、経済、技術、科学、教育、およそ全ての条件で十分な水準を持っています。「課題解決」というビジネススクール流の使い古された発想もよいですが、大胆な飛躍を必要とする技術・社会のリデザインは、本質的に異なる舞台として未来に広がっていることでしょう。これから数十年間を生きる世代だけが、その挑戦権を持っているはずです。

 

(なお、「ICT」「ビッグデータ」を熱心に標榜する人の中で、一見似た見方として、「産業革命」、「情報革命」、そして今は第三期のデータ革命期だ、という意見を伺ったことがあります。筆者はこの意見には与しません。社会構造や働き方、企業組織の転換まで視野に入れると、「現在」をそこまで過大評価する気にはなれないのです。)

 


■ 2.インターネット時代の「ソーシャルの次」

もう一つのトピックとして次に、産業革命史の数百年単位よりも身近な、数十年単位の範囲の話をしましょう。

「第三次産業革命=情報革命」の浸透期と位置付けた現在ですが、ビジネスの流行は目まぐるしく移り変わり、一世を風靡したITベンチャー企業がほんの数年後には凋落の憂き目に遭っていることも珍しくありません。

起業家精神にあふれた友人たちから、あるいは就職活動に直面する学生たちから、先の見えない業界動向の展望を聞かれた時、以下のような話をしています。

 

・「地球の裏側」

インターネットが技術的に整備されたのは1970-80年代、それが一般にも幅広く使われ始めたのは1990年代前半、今から20年ほど前のことでした。このときからインターネットに触れていた方は、どんな用途に最初に飛びついたかをご記憶でしょうか。

当時、インターネットを使える環境を手に入れたら、皆まず真っ先に、「www.whitehouse.gov」や「www.nasa.gov」とブラウザのアドレスバーに入力したものでした。GoogleやAmazonの創業よりも前のことです。「インターネット」「ワールドワイドウェブ」「アドレス」「ブラウザ」「アクセス」「ダウンロード」など、一つ一つの言葉全てが目新しかった時代。

当時、米政府やNASAなど、地球の裏側で掲載された情報を直接受け取れるなど、想像もできない時代でした。米政府の発表は、まず現地メディアが記者会見で情報を受け取り、日本メディアの現地局が受け取り、翻訳され、日本側の記者が電信で受け取り、配達される新聞や電波に乗ったテレビ放送のニュースで伝えられる。それだけの何重のステップ、フィルタを経て受け取るものだったのが、インターネットによっていきなり一市民が直接受け取れるようになったのです。地球の裏側の情報を直接受け取れる、それこそが情報技術の革命の象徴的な出来事だったのです。

 

・「ホームページ」と「300人の友達」

その後、1990年代後半から2000年代前半には、インターネット利用環境は加速度的に普及していきました。

多くの企業が独自のウェブサイトを作り、企業広報には必須のものになっていきます。「ホームページ」という和製英語が普及したのもこの頃(英語でhome pageといえばウェブサイトのトップページのこと)。この「ホームページ」文化の浸透で、インターネットと言えばお店やメーカー、新聞社などから情報を受け取れるツール、となっていきました。この頃にインターネットに触れ始めた人は、米政府やNASAのサイトを見た記憶はないことでしょう。多くの人にとって、地球の裏側よりもお気に入りの百貨店のほうに関心があるものです。

そして、次の転換は2000年代の中頃、SNSの登場です。

日本でいえば「mixi」や「GREE」、アメリカでいえば「My Space」や「Second Life」など、SNSサービスがインターネットの最大の利用目的に取って代わりました。数百人の「友達」の情報を受け取り、また自分でも発信することが、インターネットでの最大の関心事となったのです。その後、主役は後発の「facebook」「twitter」「LINE」などに移り、2010年代前半の現在に至るまで「ソーシャル」という言葉がもてはやされる時代が続いています。

これは考えてみればとてもシンプルな構図です。インターネットが最初に一般市民の目に触れたときは、地球の裏側の情報を自由に受け取れるようになったことこそが技術革新による革命的な出来事でした。ですが、人間というものはやはり、地球の裏側よりも日本の会社、日本の会社よりも300人の友達、に自然により強い関心を持っている、ということによる当然の成り行きだというわけです。

 

・「300人の友達」?

多くの人がSNSを日常的に使用するようになった現在、新たなひずみも見られるようになりました。

大半の人にとって、正直なところ、「300人の友達」の毎日のランチの写真、映画の感想、夜景を見た感動、にはそこまで興味がないのです。結婚した、転職した、などと聞けば祝福の言葉を届けたいとは思っても、今まで年に一回の年賀状で満足だった人たちの毎日の生活まで知りたくもない。逆に、自分のことを投稿するときも、結婚や転職なら「300人の友達」隅々まで知ってもらいたいと思うにしても、今日のランチがおいしかったことが「300人の友達」隅々に届いてしまっても困惑する、という人も多いでしょう。

もともとたいして興味もないけれど、技術的に可能になったのが目新しいから、「300人の友達」の情報の垂れ流しを欠かさずチェックしているわけです。これはまさに、なぜかホワイトハウスのページをまず欠かさず見た頃と全く同じです。

時代は必然的に、次に進むことでしょう。

 

・「ソーシャル」の次

そう、本来、人が強い関心を抱くのは、「300人の友達」ではなく、もっと自分に近いところなのです。

それは、「4人の家族」であったり「6人の仲の良い親友グループ」であったりすることでしょう。

今、うちの子供はどこで遊んでいるんだろう。おばあちゃんの体調はどうだろう。ペットの機嫌がよくないのはどうしてだろう。今日の夕食でみんなが今食べたいのは何だろう。冷蔵庫で何を切らしてたっけ。自動車にガソリンは十分入っていたっけ。来週の連休はどこに行くとみんな喜ぶだろう。

これらの一部は、スマート家電などの形で取り入れられ始めていますが、まだまだ爆発的に浸透するほどニーズを突いたものはありません。

そして、行きつく先、人にとって自然に最も関心が強いのは、家族よりもさらに近いところ、そう、自分自身です。

昨日行ったお店で気になっていたことは何だったっけ。昨日会った人と何を話したっけ、何か頼まれていたけれど思い出せない。明日はどこに行こう。今日は食べ過ぎたかな。最近ちょっと運動不足だろうか。生活リズムが乱れているのはどうやって直そうか。今日は体調がちょっと悪い気がする。

既にこの関心に応えるサービス・製品の片鱗は見え始めています。Google Glassのようなメガネ型端末だったり、FitBitのようなリストバンド端末だったり。「ライフログ」と呼ばれるサービスも一部では始まっていますが、まだ決定打はありません。

「ソーシャルの時代の次」は、もうすぐそこです。

 

 

■ 3.まとめ

どんなに優秀な人たちがチームを組んで素晴らしい仕事をしたとしても、それが時代が求める潮流に合っていなければ、時代にその痕跡を残すことはないでしょう。仕事は、人様の役に立つものでなければならず、その「人様が求めるもの」は時代によって移ろいゆくのです。

未来は確定的に予測できるものではありませんから、ここでご紹介した「時代のストーリー」ももちろん絶対ではありません。ですが、何が「これまでの世界」で、何が「これからの世界」なのか、その「時代の潮目」はおぼろげながら確かに見えてきます。

多少の金持ちになることが人生の目標なら、「これまでの世界」のビジネスモデルをうまく模倣する最短ルートを採り、そのために「今」の瞬間を見極めることこそが重要でしょう。時代の大きな潮流よりも、「今」というタイミングに世の中で求めらているものを捉えればよいのです。

ですが、それとは別の、「これからの世界」を切り拓く役割を果たすという生き方もあるはずです。それは、マネジメント能力を極めて大組織のトップになるのとはまた違った意味での、「社会的リーダー=先導者」としての生き方。

人間の人生は一度きりです。「2000年代に始まって2050年代まで」など、その人がキャリアを築ける期間も動かすことができません。

その一度きりの期間。「これからの世界」を先導する生き方を選ぶ人間でありたいものです。

「不安」を抱く日本

東日本大震災以来、折に触れて考えていることがあります。

日本人を「不安」という感情の観点から読み解くと、震災以降の一見理解しがたい動きにも光明が見えてくるのではないか。さらには、そこから、日本の取るべき指針にも示唆があるのではないか、と。

(以下では、感情的な対立が見られる政治的論点(原発、TPP、消費税など)についても触れます。なるべく客観的・普遍的な観点を取るよう心掛けていますが、これらの論点についてご自身の立場との違いによって感情を害される方もいるかもしれないことをご了承ください。また、特に、原発に関する部分は物理学を専攻した者として、経済に関する部分は経営戦略立案・消費者行動分析を生業とする者として、技術的知識や定量的把握に基づいた著述を心掛けています。)

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■1.震災のあとの日本
■2.「不満」で動く欧米人、「不安」で動く日本人
■3.「不安」から「好き嫌い」への固定化
■4.本当に恐れるべきこと
■5.まとめ:適切に「不安」を語れるリーダーを
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■1.震災のあとの日本

東日本大震災のあと、日本に起こったこと。
まずここからひも解いてみましょう。

東日本大震災では、死者・行方不明・関連死を合わせて、おおよそ2万人という数の命が失われました。家族を失う深い悲しみを背負った方々の数はその数倍になるでしょう。さらに、避難生活を強いられたのが(今も戻れない方も含め)数十万人。家が流される、仕事先がなくなるなど様々に苦しい思いをした方は数百万人にのぼるでしょう。

同じ時期に、被災地以外の日本の残りの地域で何が起こっていたかというと、原発事故による放射能におびえる「不安」の爆発的な蔓延でした。
東京から西日本に退避するという極端な行動に出る人も多く、著名な企業までもが、社員を東京から大阪への移動を推奨するというパニック心理を助長する行動を取りました。
水道水から放射能が検出されたと報じられると、健康に影響する水準の1万分の1程度などであったのに関わらず、毎回ペットボトルの水が買い占められる事態となりました。
TwitterなどのSNS上には不安をあおるデマ情報があふれ、テレビなどのマスメディアでも、不安を誇張するエセ学者が連日登場し、科学的で客観的な情報を提供し続けていた政府に対する盲目的な批判を流し続けました。

震災直後に日本で起きたことは、まさに「不安」の連鎖による社会的パニックだったと言ってよいでしょう。
震災からずいぶん経ったあとでもなお、被災地のがれき焼却に対して反対運動が起こるなど、震災復興を妨害するほどの「不安」の連鎖は今も続いています。
総選挙の候補者たちの争点も、2万人の犠牲者を出した震災からの被災地復興事業はまるでもうすっかり忘れられたかのようで、一方で(1人の直接的犠牲者も今のところ出さずに収束に向かっている)原発事故の「不安」心理に訴えての「脱原発」ばかりがにぎやかに議論されています。

今回の震災では、被災地での、厳しい状況のもとにあっても誠実さや思いやりの心を忘れず、略奪や暴動などの社会的混乱も発生しない様子は、日本人の素晴らしさとして、海外からも驚きと称賛の声が集まりました。
被災地での救助に当たった多くの方々の厳しい条件下での献身的な活動、その後の長期的な様々な形での支援もあっての復興の息吹は、苦難を乗り越える日本を世界にも印象づける、とても心強いものでもありました。
その一方で、なぜ同じ日本人が、被災地以外では、この肝心の時期に《東北の被災地はそっちのけでの大騒ぎ》を演じてしまったのでしょうか。
これを単に、「放射能という、初めて聞くもの、目に見えないものに対しては、人は特に不安に感じるものだ」というだけで片付けてよいものなのか、それが震災以来ずっと違和感として引っかかっています。

■2.「不満」で動く欧米人、「不安」で動く日本人

がらりと話を変えて、今流行のスマートフォンについての話をしましょう。

世界的に何億台と売れているスマートフォン。
海外(特に欧米)では、Samsung製やApple製が売れ行きを競っています。
彼らがアピールする製品の強みは、デザイン、画面の解像度、CPU性能、メモリ容量・・・。
それぞれ、「かっこ悪くて不満だ」、「画面がきれいじゃなくて不満だ」、「動作が遅くなってきて不満だ」、「アプリを入れられなくなって不満だ」といった声にメーカーが答えてきた結果でしょう。

一方、日本では、ほとんどのメーカーが、世界で売るためのモデルとは別に、日本専用のモデルを作って日本で売っています。
日本モデルにはほぼ必ず入っている機能が、「防水」、「ワンセグ」、「赤外線」の3つ。これらは、日本以外ではまず見ることはできないはずです。
日本では、これらの機能が入っていない欧米市場仕様のモデルは、発売されてもほとんど売れず、すぐに販売中止になることもあるほどです。ですが、スマートフォンを持っている方で、これらの機能を実際に使っている方は多いでしょうか?
これらの機能は、実際に使いたいから望むこともあるでしょうが、むしろ、「水に濡れることもあるかもしれないから、壊れると困るから」、「外出中にスポーツ中継など見たくなることもあるかもしれないから」、「SNSを使うようになって連絡先交換の必要もなくなってきたけど、出会う人によっては必要になるかもしれないから」と思って、これらの機能付きの機種を選んでいる人も多いでしょう。

つまり、欧米人は「不満」でスマートフォンを選び、日本人は「不安」で選んでいる、と言えるのではないでしょうか。

いまどきのスマートフォンの話から離れ、歴史を振り返ってみましょう。
やはり、欧米では重要なシーンには「不満」が、日本では「不安」が顔を出します。

ヨーロッパ近代史の転換点となった1789年のフランス革命。市民が貴族・王族に対して、固定化した階級社会への「不満」を爆発させたバスティーユ監獄事件に端を発し、王政から共和制へ転換されました。
現代の超大国の起点となった1776年のアメリカ合衆国独立。宗主国イギリスの課税への「不満」が、ボストン茶会事件、独立戦争へと導きました。
あるいは、現代史を決定付けた1939年開戦の第二次世界大戦。ドイツでのヒトラー・ナチスの台頭の背景には、ベルサイユ条約下で国民に鬱積した「不満」がありました。

一方の日本。
近代国家への転換点となった明治維新・戊辰戦争は、ペリーの黒船に始まる諸外国の来訪、未知の軍事技術を目にしたことでの「不安」が人々を突き動かしたものでした。
その後の、日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、満州事変、そして日米開戦に至る諸戦争も、諸外国への「不満」による部分よりも、欧米列強の脅威、東アジアに触手が伸びる植民地化への「不安」による部分が大きかったと思われます。

現代でも、この傾向は同じようです。
2011年、「Occupy Wall Street」を合言葉に、ニューヨークを始め、欧米では各地に広がった「99%対1%」の格差社会への抗議デモ。「1%」の富裕層に対する「不満」を表明する運動でしたが、日本ではそれほど盛り上がりませんでした。ましてや、同年のロンドン周辺での低所得者層による暴動のような事態が日本で起こることはなかなか想像できません。

一方で日本では、「脱原発」デモ、「反TPP」デモは霞が関などで大いに盛り上がりをみせました。
これらのデモ活動で人々を駆り立てるエネルギーとなったものは何だったでしょうか。「脱原発」デモの場合は、原発の存在によって自分や家族の健康が損なわれるのではないかという漠然とした「不安」、「反TPP」デモの場合は、産業構造の転換によって自分や仲間の職が危うくなることへの「不安」、と解釈することができるでしょう。

このように見ていくと、「不満」は耐え忍び、でも「不安」には突き動かされる、日本人の姿が浮かび上がってきます。
被災地では避難場所の不便な生活に不平を漏らさず、一方で被災地外では放射能への不安に踊った震災時の日本人の行動にも、一定の理解が見えてきます。

■3.「不安」から「好き嫌い」への固定化

「不満」ではなく「不安」で動く日本人。
これは、文化の歴史を背景として、日本人が尊ぶ美徳とも密接に関係しているでしょう。
和の思いやりの心の基盤でもあり、日本人として大切にしていきたいものです。

ですから、私達は、「不安」に突き動かされやすい社会的性質があることを自覚し、その「不安」が根拠のないものであれば解消に努め、本当に「不安」に感じるべきものには敏感であり続ける、そうやって「不安」と付き合っていくべきなのでしょう。

一方で、心配に感じることもあります。
「不安」に思う気持ちが高揚し、さらに同じ「不安」を持った人たちが集まって共鳴した時には、それが問答無用の「好き嫌い」の気持ちとして正当化されてしまう傾向があるように思います。

例えば、米軍の垂直離着陸機、オスプレイ。
この新しい機種の日本国内での運用が始められることに対して、「不安」が高まりを見せました。背景には、開発中・初期運用中の何度かの事故が報道されたことに加え、これまで見慣れた航空機やヘリコプターとは見た目が異なることがあったと思われます。
実際には客観的には、すでに国内で運用されている様々な航空機・ヘリコプターと比べても事故率は特に高いほうではないようです。ですが、このオスプレイという機種に対する「不安」が高じて「嫌い」という感情に固定化してしまったのでしょう、もっと事故率の高い他の機種は放っておいて、オスプレイの導入にだけ激しい抗議活動が起こる、という一見奇妙な事態となりました。

あるいは、放射能への「不安」。
自分や家族の健康を損なうのではないかという「不安」が高揚し、少しでも放射能に関係しそうなものは「嫌い」と思うようになった方々が少なくないように思います。
現在、市場に出回っている農産物は、全て放射能の安全基準を下回っているものになっていますが(しかもこの安全基準自体、実際に健康に影響がある水準の1万分の1程度などと極端に低く設定されています)、「東日本で作られた農産物は一切口にしない」と言う人も今でも時折耳にします。
そういった、いったん「嫌い」になった方々は、「もともと自然放射能としてずっと多くの放射能を普段から浴びているものなんですよ」とお話ししても関心を持たれません。
そして、こういった方々が「加害者」となって生じている風評被害は広範囲かつ長期に及んでおり、原発事故での一時移住による被害自体よりも大きくなりかねないほどです。

TPPによる産業構造の転換によって自分や仲間の職が危うくなることへの「不安」が高じて「嫌い」になっている方々についても同様の見方ができるでしょう。
JAや医師会など特定のグループの中で「嫌い」の感情が集団心理として凝縮した分、より強固に固定化されているようにも感じられます。

「不安」が「嫌い」となって固定化すると、「不安」の背景に対する思考が止まってしまい、「嫌い」なものを拒絶すること自体が目的になってしまいます。
極端な例では、被災地のがれき焼却に対する反対運動など、震災復興の妨害と言わざるを得ない行動でさえ正当化してしまう状況も見られました。
そうなってしまったら、「不安」の気持ちは、もう日本人が美徳とする思いやりの心を育むどころか、自分の行動によってどこか別のところで苦しむ人が生まれることへ想像力さえ奪ってしまいます。

「不安」なものを「嫌い」と判断して拒絶すると、ひととき気が楽にはなるものでしょう。
「不安」に思っていたものを「嫌い」と思い始めて思考停止していないか、それを誘うマスメディアや知人からの甘い言葉につい乗ってしまっていないか、気を付けていたいものです。

■4.本当に恐れるべきこと

ここまで、「不安」を抱いて生きる日本人を考察してきました。
では、私達は、本当に恐れるべきことをきちんと「不安」に感じられているでしょうか。

まず第一に、これから数十年間の日本の命運を左右する最大の要因として、人口の減少を挙げましょう。

バブル崩壊後の1990年代から現在2012年に至るまでの日本は、GDPは停滞し、失われた10年(Lost decade)、失われた20年ともいわれます。
ですが実際には、一人当たりGDP(GDPを人口で割ったもの)を先進国の各国と比較してみると、この期間においても一人当たりの経済成長は、大きく劣るものではありません。
(米国が1.4%/年、日本が0.8%/年; 参考:FT http://www.ft.com/cms/s/0/6152b9ca-1904-11e0-9c12-00144feab49a.html
つまり、日本の経済力の低下は、人口の減少によるところが大きく、ひとりひとりの日本人は「失われた20年」の間もそれなりによくやってきている、と言えるのです。

逆に言えば、人口減少を反転させなければ、日本の経済力の本質的な復活は絵空事と言えるでしょう。
今後本格的に加速してゆく人口の減少は、経済の活力を削ぎ、世界の中での日本のプレゼンスを確実に低下させます。加えて、少子高齢化による人口バランスの偏りにより、若年層の負担が増すことが困難をさらに深めます。

このように、人口減少が現在の日本にとって最大の課題であることは論を待たないところです。ですが、総選挙で政治談議がかまびすしい中でも、抜本的な少子化対策を国家の最優先課題として訴える人はなかなか見当たりません。
原発やTPPのように目新しいトピックに対しては「不安」を強く抱いても、数十年かけてにじり寄る危機に対しては「不安」を忘れてしまうのでしょうか。

二つ目に、地球温暖化の話をしましょう。
これは、日本だけではなく世界全体の問題ですが、極めて深刻な課題です。

今後数十年の間に、全地球的な気候変動により、居住や農業生産に適した地域は過去千年間変わらなかった場所から着実に変動します。海面の上昇も始まるでしょう。
この結果、移住や生活の激変を強いられる人々は数千万人、数億人になることも想定しなければなりません。
感染症の発生地域の移動、食糧生産の停滞による飢饉の発生などにより、数十万人、数百万人の犠牲者が発生することも考えられるでしょう。

さらに深刻なことに、この気候変動は不可逆的、つまり元に戻すことが極めて困難なものです。
毎年世界で排出される温室効果ガスは上積みされ続け、大気中の二酸化炭素濃度は毎年上昇を続けています。子供のころの理科の教科書には大気中の二酸化炭素濃度は「0.3%」と書いてありましたが、もうこの数字は0.4%と書かなければなりません。
(参考:気象庁 http://ds.data.jma.go.jp/ghg/kanshi/ghgp/21co2.html
温室効果ガスの排出量を25%減らすことが意欲的な目標として語られています。ですが、もしこれを実現できたとしても、温暖化の被害が25%減るわけではなく、毎年の上積み、つまり気候変動の毎年の進行が75%になるだけで、気候変動は着実に進み続け、悪化の一途をたどります。
温室効果ガスの排出量をもし仮に100%減らすことができてようやく、今既に進んでしまった異常気象は元に戻せませんが、それ以上は進行させずに食い止めることができるのです。

これほど深刻な事態が控えていても、数十年かけてにじり寄る危機に対しては、「不安」は忘れられてしまいます。
上に挙げた、影響を受ける人数を、福島原発事故の数字(移住を強いられた人が数万人、犠牲者が避難時の混乱を除いて今のところゼロ)を思い出して比べれば、あまりに桁が違う規模の深刻な課題だと容易に理解できます。
ですが、我が国は、原発事故という目新しい「不安」の高揚によって、25%の温室効果ガス削減目標さえ放棄し、この桁違いに大きな課題への真摯な対応を停止してしまいました。

三つ目に、日本の財政問題があります。

今の日本を1世帯だけの村に例えるとすると(兆円→万円)・・・
世帯年収は500万円。そのうち80万円を村役場に税金として納めています。
資産は、村の銀行に預金が1300万円、土地・建物が評価額2400万円。預金が多いので当面は安泰だと思っている状況です。
ですが実は、村の銀行は、一家の預金のうち1000万円を村役場に貸し付けています。村役場は、借りたお金のほとんどをすでに使い切っていて、100万円くらいしか実は残っていません。村役場は毎年の予算が120万円なのでお金が足りず、毎年40万円を村の銀行から新たに借りています。
(参考①:内閣府 http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kakuhou/files/files_kakuhou.html
参考②:総務省 http://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/hakusyo/chihou/23data/23czb1-1-1.html

つまり、一家は銀行の預金があると安心していますが、その預金はすでに村役場の中で溶けてしまっている状態です。
もうあと数年で、村の銀行に預けられている預金が底をつけばどうなるでしょうか。隣町の高利貸しからお金を借り始めて借金地獄にはまるか、それとも隣町の資産家になけなしの土地を切り売りするか。
あるいは、一家が村役場に収める税金を増やし、村役場が使う予算も減らして、この事態を避けるか。いずれにせよ、猶予は持って10年でしょうか、「今は景気がイマイチだから数年後になってから考えればいいや」とのんきに考える人はどのくらいいるでしょうか。

現実の世界に話を戻せば、「今は景気がイマイチだから、消費税を上げるなんてとんでもない」と言っている政治家は少なくありません。
これもまた、数十年かけてにじり寄る危機には、日本人の「不安」感覚が反応しなくなっていると考えなければならないのでしょう。

歴史を振り返れば、日本人はこれまでも「にじり寄る危機」に対して適切な「不安」を抱くことを苦手としてきたとも言えるでしょう。

太平洋戦争において、徐々にしかし確実に明らかになっていった戦局の悪化、挽回の困難さに対して、指導部や国民が適切な「不安」を早期に共有できなかったことが、多数の民間人を含む数百万人の犠牲者と、国としての存続の危機を招きました。

バブル経済の拡大期にも、徐々にしかし確実に明らかになっていった経済のバブル化に対する「不安」を適切に早期に共有できていれば、日本経済のダメージは大きく軽減できていたかもしれません。

■5.まとめ:適切に「不安」を語れるリーダーを

ここまで見てきたように、我々日本人は、「不安」への感度が高いゆえに繊細な心遣いを持つ文化を育んでいると同時に、ときに幻想への「不安」に突き動かされて極端な行動に走ってしまうこともあるようです。それは時に、日本人らしい他者への思いやりの心さえ置いてきぼりになるほどです。私達ひとりひとりが、「不安」とうまく付き合っていく必要があると言えそうです。

同時に、各分野で日本の主導的な役割を果たすリーダー達には、人々の「不安」をどう解きほぐすことで不幸を取り除くことができるか、「国民の総幸福量」を増やすことができるか、を考えられることが重要な能力だと言えるでしょう。
「原発」や「TPP」、「年金」、「失業」のように多くの人々に不安を惹起する事柄については、特に丁寧な説明、語りかけを工夫することが求められます。

逆に、人々の「不安」を誇大に語ってあおることは、日本で社会的リーダーの役割を果たす人々は厳に避けなければなりません。それは、「不安」の対象を「嫌い」と固定化し、適切な判断を妨げ、かえって多くの人を不幸にすることにつながります。

例えば、原発への不安をあおり、再稼働を強硬に阻止することは何につながるでしょうか。

前項でも挙げたように、原子力の代わりに化石燃料(石油や石炭、天然ガス)を大量に使用することで、地球温暖化がさらに加速してしまいます。これは、原発事故とは比較にならない桁違いに多くの人々を苦しめる修復不能の環境破壊を、しかも千年に1度の天災ではなく恒常的、半永久的に引き起こすことになります。

また、現在、原発をほぼ全て止めていることで、化石燃料の輸入高が年に数兆円という規模で膨らんでいます。これはつまり、国内で雇用などに回るはずだった国民の財産がその分だけ、代わりに中東やロシアの富豪たちの懐に回っていることを意味します。今後も毎年数兆円の国富が流出するとすると、直接雇用で数十万人分、その家族や間接効果も含めれば数百万人の雇用、生活のすべを失い続けることに相当します。これによって国民を不幸にする総量は、原発事故自体での一時移住によるものをはるかに上回り、それが毎年続くことになります。

原発事故のリスクを抱え続けるのは誰もが望まないものですし、将来的に全てを再生可能エネルギーで代替するのが理想であることも確かでしょう。
ですが、(水力を除けば)現在は全体の1%程度でしかない再生可能エネルギーが日本のエネルギーの主力となるほどに拡大するまでの間、化石燃料に大量に頼り続けるのは、原発事故そのものよりはるかに多くの人々を不幸にしてしまうのです。
それでもなお、放射能への不安をあおり、「原発再稼働断固阻止」を声高に訴えるのは、いったい誰のためでしょうか。本人は意識していないにせよ、それはもはや、不安感の高揚に身を任せ、自分自身や家族の不安さえ解消できればその陰での他者の不幸を忘れてしまう、露骨なエゴイズムになってしまってはいないでしょうか。

TPPへの不安をあおる人々、消費税増税への不安をあおる人々に関しても、同じ構図が見て取れます。
社会のリーダーとしてすべきことは、誰もが感じる自分の将来への不安を感情的にさらに膨らませることでしょうか。そうではなく、不安を丁寧に解きほぐしながら、より多くの人々に不幸がもたらされる事態を避けることではないでしょうか。

そして一方で、日本のリーダー達には同時に、日本人が「不安」を感じることを忘れてしまいがちな「にじり寄る本当の危機」に対して、その事態の深刻さを的確に理解し、それを多くの人々が納得できるよう丁寧に語りかけられることも重要だと言えるでしょう。

前項で挙げた、「人口減少」、「地球温暖化」、「財政危機」の3つの例はいずれも、現在において、徐々にしかし既に確実に明らかになっている重大な危機です。これらに対して、適切な「不安」をどこまで共有できるかどうか、それが、日本という国、その運命共同体である私達日本人の命運を大きく左右することになるでしょう。

過剰な「不安」や「嫌い」の心理を丁寧に解きほぐすこと。同時に、「にじり寄る危機」への「不安」を適切に喚起すること。
その両方をきちんと語れることが、日本の進む指針を考えるリーダー達が備えるべき能力だと思います。
これが、社会的課題が高度に複雑化する現在・今後の日本において、現代的な意味での「ノブレス・オブリージュ」を自覚するひとりひとりが果たす役割として認識すべきことだと思うのです。

 

(メモ)3年間の節目、現在の視点

中学校の文集の「将来の自分」欄に「天文学者」と書いていたほど既定路線に考えていた、
科学者としての道から離れたのは3年前でした。
そのとき、大学の研究室でとてもお世話になった方から、
《社会に出て働いてみて3年くらい経ったころに、どんなことを感じているかを聞いてみたい》
という言葉をもらったのが今でも印象に残っています。

― 自然科学の研究者として、その深遠な研究対象を見つめながら生きてみた場合と、
同様の思考規範や演繹能力をベースとして、幅広い実務的な課題に取り組んでみた場合と。
ある程度の経験を踏まえたときに、それをどう比較するだろうか ―

― これから、それまでとは全く違う人々、全く違う優先度の中で過ごしてみて、
自分は何を感じ取るだろうか、自分が持つ視点や価値観がどう変わるだろうか ―

それから、この4月でその3年間を迎えました。

最初の1年半は規模が大きく確立された組織で、そのあとは少人数で自分たちで作る組織で。
社内外の様々な人と様々な働き方、関わり方で一緒に仕事をする中で感じ貯めたこと。
また、その途中では生まれて初めて大きな病気を経験し、
薬の副作用や不安定な経過に悩まされる中で感じた自分の視点の変化。
直近では、他の皆さんとも同じながら、震災で陰に陽に受けた影響も小さくないと感じます。

この機に、今自分が持つ視点や価値観を文章にしておきたいと思い、これを書いています。
この時間を経て、大切だと新たに気づいたこと。
そして、様々な考え方を持つ人と出会ったけれど、それでもやはり信じ続けていること。

===================
■ 1.真偽と軽重を見抜く力を研ぎ澄ます
■ 2.実行する困難と価値を認識
■ 3.組織内論理に支配されない
■ 4.「どこで働くか」より「誰と働くか」
■ 5.自分が楽しみ持続できる努力を
■ 6.人に頼り続ける人生、常に感謝
■ 7.今、次に考えていること
===================

■ 1.真偽と軽重を見抜く力を研ぎ澄ます

剃刀のごとく鋭く、事の真偽と軽重を見極めることの重要性。
それは、理論物理学や科学的思考から得た価値観の核心にあるものでした。

ですが、働き始めてしばらくの間、この大切さを見失っていたように思います。
数多の価値観を持つ人々から日々学び取ろうとすることに没頭しすぎ、
自分が大切にしていた価値と、なぜそれを大切にしていたかは傍に置いていたと今感じます。

しかし、考える時間を取って冷静に振り返る今、やはり
何が正しいか、何が重要か、を見極めることの重要性は揺るがないと再認識しています。

特に、今回の震災のように誰も経験していない状況下での判断は、
論理的、客観的かつ定量的な真偽と軽重の認識の有無によって決定的な違いが生じます。
企業の重要局面に立ち合う戦略コンサルタントという仕事でも、その条件は同じです。

しかし一方で、一線の科学者の中では当然のものであるこの真偽を見極める力は、
実業に携わっている人々の多くには、とても縁遠く理解しがたいものであるのが現状です。

社会的リーダー層であるはずの方々にも、この能力や認識を著しく欠いている人が散見され、
重大かつ自明な誤判断を下す可能性を抱えている状況を見ると不気味な感覚を覚えます。

真偽と軽重を高い水準で的確に見極めるには、
複雑で多層的な論理構成と単位や桁が異なる多数の変数とを自由に扱える必要があり、
世の中の誰もにこれを高い水準で期待すべきものではありません。
また、もちろん、科学者にありがちなように「正しさを追求していさえすれば良い」と
考えているだけでは何も出来ないのも確かです。

ですが、世の中の社会的リーダー層として役割を持つ方々が、
(科学者のような高い水準は全く必要ないにせよ)
真偽と軽重を判断する一定水準の能力を持つことの意味を認識するのは重要ではないか、
また同時に、一定程度に高い自然科学のバックグラウンドに持った人々が、
普段から研ぎ澄ましている真偽と軽重を見抜く力を用いて、
社会に対して適切な形で価値提供をすることは、小さくない意義を持っているのではないか、
と思っています。

■ 2.実行する困難と価値を認識

「真偽と軽重」は、以前から持っていた科学の価値観を再認識した例ですが、
逆に、実業に携わらなければ理解できなかったと思う価値観が「実行の価値」です。

これは、最初の職場でも様々な表現で教え聞かされていたとは思いますが、
今の環境に移って主体的な立場に近づくまでは体感としての理解はしていなかったと感じます。
今後さらに主体的に事業に携わる機会に恵まれれば、
今よりさらに思い知らされることになるのだろうとも、今容易に想像できます。

大勢の人々に実際に手を動かしてもらい、事業を運営し前に進めること。
大勢の人々と雇用の約束をし、将来に渡っての仕事と給与の提供を保証すること。
自分たちが顧客に提供する価値を設計し、その価値に値段をつけ、
値段に見合う価値を納得してもらって顧客の資産の一部から代金の支払いを受けること。

実際に行うときに、いずれも空想しているほど楽なものではないことは、
より主体的な事業運営をされた経験のある方ほど感じられているものと思います。

そして、その簡単ではない役割を誰かがやっていなければ、
世の中に雇用はありませんし、便利な日常生活もないのです。

これを体感し認識し始めて、様々な場面での考え方が大きく変わってきたと感じます。
例えば、実行を担っている組織(例えば企業や行政)に対して、
改善提案や代案を含まず単にその批判に終始している主張が見受けられますが、
そういった主張は、その批判対象に関わらずほとんど無価値だと感じるようになりました。

震災後、政府等の対応に対して代案もなく非難の言葉を並べる人々が目についたことでも、
この認識はいっそう強くなったように感じます。

常に、批判ではなく提案をする人間でありたい、
そして机上の議論だけでなく価値創造や雇用創出に貢献できる人間でありたいものです。

■ 3.組織内論理に支配されない

子供のころを思い出すと、学校では「進路」と呼ばれていたものについて、
組織や職種といった抽象的なもので考えていた気がします。
「○○大学を受験する」「○○株式会社を志望する」「政府で働く」「国際機関で働く」・・・

やはり、大学や会社、各種機関といった組織は、
子供のときに存在を知って以来それは所与の確立した存在と受け入れてきたもの。
大学名や企業名へのブランドとしての憧れも加わり、
どのハコに所属するかを決める「受験」や「就活」が人生を左右する重要なことと
思えていたことも自然な経緯でしょう。

そして今、ハコの内や外で働いてみて、あるいは自分のハコを作りもしてみて、
ようやく腑に落ちるのは、世の中のハコは
どれもあいまいで動的で有機的で、人の心の中と紙の上にのみあるものだということ。
会社組織や行政組織というものは、大企業から中小企業までどれも、
まず誰もじっくり読んだことのない細かな字がびっしり書かれた紙と、
その組織の中で過ごしてきた人がいつしか心にはめ込んでいた木枠とで出来ているもの。

そうすると、自分を包んでいる「頑丈なハコ」を永続的なものと信じ、
その中でしか通用しない論理の取り扱い方に熟達してゆくことは、
なんだか奇妙で滑稽なことのように思えてきました。

一方で、「きちんと機能するハコ」を作り、
そのハコで大勢の人々が能力を発揮できる場所を提供することに貢献している人は
それだけでも敬意に値すると感じるようにもなりました。

■ 4.「どこで働くか」より「誰と働くか」

「どのハコに所属するか」を重要視する気持ちは薄れる一方で、
それに代わって重要だと感じる気持ちが強くなってきたのは、
誰と一緒に働くことができるか、ということです。

一緒に働いていてとても有意義で面白いと思える人と、
逆に残念ながら一緒に働く機会も不毛と感じてしまう人とが、
自分の考え方や働き方を研ぎ澄まそうとすればするほどに
くっきりと分かれてしまうように思います。

前者だと思える人の共通要素は何だろうかと考えてみました。
思い至ったのは
《生まれてこのかた数十年間の間に、
こだわりを持って自分の頭で思考を積み重ねてきた総量》
にざっと比例しているのではないだろうか、と。

(『思いて学ばざれば則ち殆し』の論語の節もありますが、
本当にこだわりを持って深く思考し理解しようとする人は、
「今の自分の考え方以外にも他に重要な視点があるのではないだろうか」
とも考えるでしょうし、それも含めて「思考の蓄積総量」が指標になるのではと。)

一緒に働きたいと思える人の条件は僕の場合にはこのようなものだと感じますが、
これは人によって性格や価値観に従ってそれぞれに異なることでしょう。

その条件がどのようなものであれ、
生き生きと自分の能力を活かして結果を出せるかどうか、
また、自分を次のステップに進めるのに的確な刺激を受けられるかどうかは、
誰と一緒に働く環境を得るか、が最も大きな分かれ目なのだろうと感じます。

■ 5.自分が楽しみ持続できる努力を

去年経験した病気は、
国内の患者累計10万人になるもののまだ原因が特定されておらず研究途上で、
有力視されている原因には複合的な遺伝要因などが含まれると聞いています。
働いていた環境の名誉のために書いておくと、
「長時間労働で倒れた」とか「ストレスで胃潰瘍」といったものとは異なるようです。

いずれにせよ、この経験は、自分の考え方にも大きな影響を受けたように思います。

計3度、合わせて9週間のあいだ病院にいて、
仕事のスケジュールが崩れて各方面に迷惑をお掛けしもしました。

徐々に量を減らしながら服用している薬の副作用によるものらしい
精神的な不安定が続いたことも、想像したことのなかったつらい経験でした。
《人間は、化学物質による化学的な作用で、
物理的に身体は正常でも、本当に何も出来なくなるものなのか。
精神疾患に苦しんでいる人の感覚もこれに近いのだろうか、
自分の場合は数ヶ月で終わると思えるからまだいいけれど、
終わりが見えないとしたら本当につらいだろう。》
こういったことを感じながらでした。

また、この精神的な不安定に加えて、
食事を制限するように言われていること(脂質が良くないので揚げ物を避ける、等)や、
体調が安定しないので直前に断らないといけないこともあり、
友人に飲みに行こうと誘ったり誘いを受けたりするのが気軽にとはいかないのも、
いろんな人と話す機会を増やしたいとうずうずする思う今、とてももどかしく感じます。

このような経験を経て今、
制約条件をまず是として受け入れ、その中で何をできるかを考えるようになったと感じます。
不調に悩まされずに自由に活動できる時間は無限ではないから、
それを人のため、自分のために、大切なリソースと考えて活用する。
「ここが頑張りどころ」と無理をした時の代償を自分で把握し、自分の時間の安売りはしない。
持続的な形で自分なりの努力を続けられるようにするために、
自分が楽しめるスタイルや程度を理解して、その範囲での努力を心掛ける。
人と自分とでは、出来ることや配慮が必要なことが必ずしも同じではない前提でものを考える。

持続的に自分が楽しみながら、自分のリソースの範囲内での努力を続けられるようにすること、
これは、今は健康に不安のない方も、どこか頭の隅に置いておかれると良いと思います。

■ 6.人に頼り続ける人生、常に感謝

とても多くの人に直接間接に頼り助けられながら生きている、ということは、
今回の病気の経験にしても、また、先の震災の経験にしても、
つらい経験や感覚を覚えたときに特に実感するものだと感じます。

ですが、多くの人に頼りながら生きているのは何もそのときに限ったことではありません。
助けていただいている方々への感謝を強く感じたときの気持ちを忘れず、
感謝の念を常に心に置きながら生きていたいものです。

今回、幸いにして充実した環境の病院で安心して治療を受けられ、
親切にしていただいている方々へ感謝の念は堪えません。

仕事上でも、状況を理解していただき、仕事に使える時間が限られかつ不安定な中でも、
役に立てる充実した時間を過ごせる環境をいただいている方々にも感謝。

何よりも、ともすれば不安感に苛まれて何もできなくなりそうな状況でも、
自分が楽しめる範囲内での努力を続けていれば自分の価値はあるんだと、
公に私に自信を持たせてくれた方々に最も感謝すべきところだと感じます。

形式的な意味での人生の進捗は、この1年間ほどは遅滞してしまった気もします。
ですが同時に、この経験がなかったらと思い浮かべると、
これらの感謝の念が残りの数十年の選び方をより深いものにしただろうと感じます。

そしてこれから、体調が落ち着いてきて今の倍の時間を使えるようになるとすると、
さあどんな面白い時間の使い方ができるだろう、これまで迷惑を掛けた分も取り返せるだろうか、
と今はむしろわくわくする感覚さえ覚え始めているところです。

■ 7.今、次に考えていること

最後に、今少し考え始めていることを書きとめておきます。
これから時間を取ってじっくり考えて自分の考え方を構成したいこと。

人が自分の行動を選ぶ原理は、
なるべくポジティブな感情(例えば、嬉しさ、楽しさ、快感、幸福感)が多くなるように、
なるべくネガティブな感情(例えば、辛さ、寂しさ、不安、怖れ)が少なくなるように、
と、意識的にあるいは無意識に、選んでいるもの。
この、感情と行動の相互のつながりが、人というものを理解する基礎なのだと感じます。

そして、この行動選択が一つではなくいくつも集まると、さらに違う様相が見えてきます。

一人一人は、自分にとって正しいと思える選択を行っているつもりなのに、
それが大勢の集まりとしては、時として全く機能不全になってしまう。

また、一人の人の中でも、
その瞬間には正しいと思えた選択を行っているのに、
長期的には意図せぬ方向に進んでしまうことも多々あるでしょう。

― では、
行政や政治、企業、市民にとって究極的な目的と言える、
《社会集団全体の総和で、かつ長期的に、
ポジティブな感情が多く、ネガティブな感情が少ない状態を目指す》
というマクロスコピックな理想的目標と、
《一人一人が、瞬間的に、
ポジティブな感情が多く、ネガティブな感情が少ない状態を得ようとする》
というミクロスコピックな動作原理とが、
うまくつなぎ合わされて機能するためにはどうすればよいか ―。

社会を悩ませる問題の多くが、この課題意識に包含されると思います。
例えば、
― 長期的に地球上に住む人々全体の幸せの総量を損なうことが目に見えていて、
どうして人類社会は炭素排出による気候変動に迅速な対応を取れないか。
― 日本全体で子や孫の世代に大きなリスクを残すと容易に想像できるのに、
どうして日本の国民と政府は早期の財政再建と増税を選択できないか。
― 今は国を挙げて震災からの復興に尽力するべき時だと理解するのはたやすいのに、
どうして議員の集まりとなると全く滑稽で日本が恥ずかしくなる行動を取ってしまうのか。
― 日本は、一人一人が幸せになろうと努力した成果として、経済的豊かさや便利で安全な
社会インフラを手に入れながら、同時に高い自殺率といった不幸せも抱え込んだのはなぜか。

これに対する答えをとは言わないまでも、自分なりの考え方を見つけられればと思っています。
心理学や経済学など既存の学問が対象としてきた部分はその蓄積に学ぶ時間も取りながら。

以上、ここまで何度かに分けて書き足しているうちに、
最初に考えていたよりかなり長い文章になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方に感謝。
もし1つ2つの小さな発見でもありましたら幸いです。

そしてまた3年前と同じく、次の3年間に心を馳せながら。

震災・原発:今我々がすべきこと、すべきでないこと

震災の発生から早1週間が経とうとしています。
被災者の方々から窮状が伝えられる度に胸が苦しくなり、
最前線で懸命の対応を続けられている方々に心からの敬意を感じます。

前線に立っての救援活動は組織化されたプロの手に委ねるべき状況のもと、
今、我々は何をするべきか、そして何をすべきではないか―
原発懸念の冷静な把握を中心に、なすべき判断の所在を考えてみようと思います。

■■ 原発懸念: 東京で過剰に騒ぎ立てる必要のある状況か

まず最初に認識する必要があるのは、健康への影響というものは「あり」/「なし」ではなく、
無視できる程度なのか深刻な程度なのかで考える必要があるということです。

地上にいる限り、いつなんどきも隕石が宇宙から降ってきて頭を直撃する可能性があります。
ではそれを聞いて、地上には危険が「ある」からと地下深くに避難しようと思うでしょうか。

あるいは、飛行機は一定の確率で墜落すると聞いても、
飛行機には危険性が「ある」からと言って飛行機に乗らない人は現在はほとんどいません。

福島第一原発で今起こっている事態も同様に、危険性が「ある」という点は確かでしょう。
では、それがどの程度深刻な事態なのかを考えてみましょう。

3/17現在、原発敷地内で検出されている放射線強度は数百μSV/時です。
(東電公表資料:http://www.tepco.co.jp/cc/press/11031704-j.html)
この強度は、もし仮にまさにその場所で1ヶ月間ずっと継続的に浴び続けると、
がんになる確率が2%ほど生じる程度です。
(※概算として、600μSV/時×24時間×30日×(発癌確率0.05/SV)とした場合)

この検出場所は原発敷地内なので、発生源から2-300m以内でしょうか。
放射線の強度は仮に遮蔽物がなかったとしても距離の2乗に比例して減衰するので、
2-3km離れた場所では数μSV/時。考えにくいですが仮に1年間浴び続けてようやく同0.2%。
50%程度がいずれがんになる日本人にとっては、もう既に全く気にしなくてよさそうな確率です。

このように2-3km離れただけで十分に安全なように思えますが、
3/17現在の避難・屋外退避指示の範囲は20-30kmに設定されています。
ここでは距離が10倍、つまり危険性はさらに100分の1になります。
実際には1年間も浴び続けるわけではないのでさらに例えば100分の1。
また、建物などで遮蔽されていればさらに数万・数億分の1に減衰。

放射性物質が直接風に乗って飛来する場合もほぼ同様の計算ができます。
2-300mの範囲内にあった放射性物質が、2-30km圏内に散らばると、面密度は1万分の1。
上下方向にも拡散するので、実際には数十万分の1でしょうか。
風向き次第でこれより濃度が上がる可能性はありますが、
風で流されるので滞留する時間は数時間~数十時間にとどまるでしょう。

日本政府の定める避難指示の基準は、放射能被害に対する市民の不安意識に応えて、
このように軽く1万分の1などかなりの安全性の余裕(バッファ)を入れて設定されているのです。
(「米国が80km以上退避勧告」と報道されましたが、単にこのバッファの取り方が違うだけです)

では、原発での事態が今より悪化し、大量の放射性物質が放出されることは有り得るか。
確かに、「ない」と断言するのは難しいことです。
例えば数%程度でしょうか。

もしそのわずかな可能性に該当し、仮に放射性物質の漏洩が数万倍になったとしても、
現在の20-30kmの避難範囲でもほぼ安全が保たれます。
この場合には、上記のような安全性バッファを持った安全基準のために避難範囲が拡大され、
避難行動に多少の混乱が生じることは考えられますが、健康への影響は軽微でしょう。
(むしろ避難生活による心身への影響のほうが心配されるべきでしょう。
このように多少の不条理を許容してでもあえて過剰に安全基準が設定されているのです。)

確率はさらに低いですが、万が一それよりさらに大量の放射性物質が放出されたとしたら。
再び、「ない」と断言するのは難しいことです。それが0.01%か0.001%でも。

東京は原発から200km、つまり影響は20km地点よりさらに100分の1になります。
それでも、現在の数万倍程度をさらに大きく超える放射性物質が放出された場合、
東京でも安全基準を超える放射能が検出され、屋内退避の指示が出るかもしれません。
その場合、外出が制限されて経済活動には大きな支障が生じるとは思われます。
ですが、安全基準に含まれるバッファゆえに、東京で健康への影響が生じることは全くなく、
数日間の静寂ののちに何事もなかったように日常生活が再開するでしょう。

では、もし0.01%の確率で
「数日間家を出られず、でも全く健康に影響はない」
ということが発生するとして、念のためであっても東京を離れる必要性を感じるでしょうか。

考えようによっては、放射能が怖いと言って母国や故郷に帰った方にとっては、
帰路で交通事故にあっていた確率のほうがずっと高いということもあるかもしれません。
■■ 津波被害: 未曾有かつ進行中の非常事態。少しでも円滑な救援活動を

津波を中心とした震災により、3/17現在で死者5,000名、行方不明9,000名に達しています。
まだ1万人単位での安否不明の情報が複数あることを考えると、
全体で犠牲者数が数万人に達することは否定しがたい状況になりつつあります。

また、津波から辛うじて命を長らえ、避難生活を送っている方々は3/17現在で40万人強。
高齢者など生活弱者も多く、寒冷な天候が続き物資も届かない状況が懸念されます。
もし仮に全体の数%の割合としても、数千数万の方々の命が危険にさらされている状況です。
すでに十数名の方が避難所で亡くなったと報道があり、まさに現在進行中の事態です。

個人として今この事態での救援活動に貢献することはまだ難しいですが、
現在大規模に進行している救援活動が少しでも円滑に進むよう、
協力できることは何でも協力したいところです。

一方の原発被害では、十数名の負傷者が出たものの、まだ1人の犠牲者もありません。
今後も犠牲者が生じないことを願いますが、残念ながら犠牲者が生じる可能性は、例えば
10%の確率で数人、1%の確率で数十人、0.1%の確率で数百人程度、
と見ておおよそ外れないでしょうか。
確率的な平均値で言えば数人に達するかどうか。

この「確率的に数人の犠牲者」という状況は、津波の犠牲数万人や、
今後避難所で生じる可能性のある数千人数万人とは比べるべくもありません。
東北地方の津波被災地の目下の状況は、
原発不安ゆえに円滑な救援活動に遅滞を及ぼすことが許容されるものではないのです。

■■ 今すべきでないこと、すべきこと

多くの方々にとって、放射能をつかみどころのない不安と感じることは避けがたいことです。

ですが、ある程度高い教養や判断能力、社会的影響力を持った方々は、
それと一緒になって不安や不信ばかりを強調していてよいものでしょうか。

東北地方での大規模な救援活動の指揮をしながら、
それと併行して原発についても正確な情報提供を続けている官邸を中心とした日本政府。
それに対し、メディア含め自身の不勉強や論理的思考力不足ゆえに理解が及ばない部分を、
「政府の危機認識が不十分」「情報を隠しているのでは」「対応が後手」
などと非難し社会不安を増幅するのは適切でしょうか。

それらの行動が東京圏3000万人に滞留する不安心理を増長することで、
政府や各種機関に被災地から遠い東京での必要以上の対応を強い、
間接的に被災地での多くの救える命を失うことにはならないでしょうか。
(健全な公権力批判は市民社会に根付くべきものですが、
この状況下で多数の命をさらに失うことになっては本末転倒です。)

今すべきなのは、被災地での救援活動を少しでも手助けすること。
個人は今は義援金の寄付など、そして体制が整ってくると出来ることも広がるでしょう。
節電に協力するなどして首都圏の混乱を最小限に抑え、
各種機関が被災地での活動になるべく集中できるようにすること。
なるべく経済活動を維持し、日本経済の維持を通して被災地復興に寄与すること。

そしてある程度高い教養や判断能力を持った方々には、僅かながらの間接支援として、
根拠のない不安の広がりを防ぐことも、今できることのひとつではないでしょうか。

(意見)事の軽重の吟味を。批判ではなく称賛と提案と行動を。

極めて厳しい試練をこの国に与えた全貌がいよいよ明らかになりつつある東日本大震災。

津波が人々の生活の全てを押し流す映像にはただただ言葉を失い、
家族や愛する人を失った方の悲嘆に暮れる言葉には耐え難く心が痛みます。

この未曾有の事態に自分に何かできないのか、と問うものの、
個人で毛布を送るわけにもいかず、今できることは義援金の寄付や節電への協力のみで、
初期の活動は自衛隊や警察、消防など組織化されたプロの手に任せるべしと悟るところです。

個人での活動は難しいこの初期フェーズですが、自分たちはどう考え、行動するべきか。
思うところを2点、以下に書こうと思います。

■■ 1.事態の軽重を的確に理解し、それに基づいた行動や発言を。

周知の通り、日本の歴史に前例のない規模の事態がいくつも同時進行で生じています。
 ・津波による犠牲者・行方不明者 (おそらく数万~10万人か)
 ・津波から生存したが食料も不足する避難者 (40万人超)
 ・岩手・宮城・福島で広範囲にライフラインが止まった被災者 (数百万人)
 ・福島第一原発による避難・屋内退避 (数十万人)
 ・東京圏を中心とした計画停電と交通混乱 (3千万人)
 ・東京圏を中心とした福島第一原発の影響懸念 (3千万人)
 ・経済活動の様々な面での停滞

この事態の中で、何に最も手を尽くすべきか。何を最優先に考えた行動や発言をするべきか。
それを考えることは、まだ個人レベルで直接的な支援をできない今でも意味があると思います。

まず最初に考えるべきなのは命の数、そして2番目に日本復興のための経済活動、
という指標で考えるべきだと考えます。

原発の事態については、今のところ、
直接的被害は負傷者数十名、そして時間に余裕を持っての避難者数万名。
東京を含めて原発から離れた地域では、健康への懸念は今のところ全くありません。

ごくわずかな確率ながら、もし今後極めて事態が悪化して大量の放射性物質が飛散し、
最悪に近いケースとして東京圏全体に数十mSVレベルの被曝が広がるとすると、
例えば概算イメージでは、首都圏人口のうち屋内避難を十分に出来なかった人10%に、
数千人に1人などの確率で発癌など潜在の健康被害が広がる、といったことが想定されます。
つまり、生じ得る「潜在的犠牲者」は考え得るほぼ最悪のケースでも数百人。
この事態が実際に生じる確率はざっと0.1%以下だと思われます。

一方の太平洋岸の被災地では、
既に数万人の犠牲者の発生が否定しがたい事実として明らかになりつつあります。

これに加えて、津波からなんとか生き延びた数十万人の避難者のうち、
もし支援の遅れによって高齢者を中心に数%の方でも一度は長らえた命が止まってしまうなら、
万単位の命をさらに失うことになりかねない危機が今そこにあると考えるべきだと思います。

この状況の中で、まだ命が危ぶまれる事態までは全く波及していない東京で、
漠然とした不安のために原発の影響から逃れようとして社会混乱に拍車をかける行動を
率先して取ることは、個人的には気が進むものではありません。

見えない脅威を怖がって東京を離れたいと思う一般市民は非難されるべきではありません。
ですが、ある程度高度な知識や判断能力を持った社会リーダー層は、
社会が混乱する時こそ冷静に、何を優先して考えるべきかを示すことは無駄ではないでしょう。

そして命が最優先されるべき初期対処を過ぎると、日本経済の再興が次の課題となります。
そのときにもまた、何を優先課題と捉えるかにその人その人の矜持が現れることになるでしょう。

■■ 2.懸命の対応には無節操な批判ではなく、称賛、提案、そして自身の行動を。

福島第一原発での情報提供や、計画停電についての対応についてなど、
政府や企業のいくつかの対応には様々な批判が寄せられているのを目にします。

混乱した対応を見せられたときに腹立たしい気持ちを感じることは自然です。
ですが、そんな時にはいったん考えてみることがあろうと思います。
その人の立場に(知識、組織も含めて)そっくりそのまま自分がいたら、
批判に耐える鮮やかな対処を絶対にすぐ出来ると自信を持って言えるかどうか。

今回のM9.0の大地震の発生は、日本近現代史において全く想定されてこなかった事態です。
次々と起こる前例の全くない事態に、前線で対処に当たられている方々は
どなたも今持てる能力を総動員して全力で当たられていると確信します。

実際に、地震発生直後から現在に至るまで、
政府を中心とした迅速かつ大規模な対応は本当に称賛に値するものだと思います。

以下のリンクの官邸ウェブサイト内のページで
「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震について」
の名前で掲載されている活動全体のまとめは、更新され続け今は75ページになっています。
http://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/jisin/20110311miyagi/index.html

ここに一覧に見ることができるのは、
地震発生直後の空自出動に始まる大規模な情報収集・捜索活動、
様々な組織・地域から集まった数万人が参加して1万人以上を救っている救出救助活動、
多岐に渡る組織が連携してのパン、おにぎり、毛布など様々な物資供給や医療チーム派遣、
そして在日米軍や海外からの多数の支援チームとの連携。

まさに驚嘆・称賛せずにいられないこれらの緊急対応の救援活動は、
未曾有の災害下にあってもなお日本という国に対する誇りの気持ちを思い起こさせてくれます。

もちろん、この事態にあっては100%完璧と言える対応は有り得べきもなく、
こうしていればより良かった、と言える対応も挙げるときりがないでしょう。

誰も経験しない対処を行うことの難しさは、東京電力に遅れて計画停電を始めた東北電力が
東京電力で生じた失敗を学んで計画を設計したことによく表れていました。

このような事態にあるからこそ、関係者の対応を批判したくなるときは一呼吸置き、
まずその予見できない事態への全力での対処に敬意を表して称賛し、
その上でよりうまく対処できる方法の提案という前向きな意見提供を行うべきだと思います。

そしてその先では当然ながら、意見を口にするばかりでなくどんな行動をできるかを考える。

今はまだ個人には実際に行動できることは限られています。
それでも、「言葉ばかりでなく行動しなくては」と衝動的に感じた気持ちは薄れさせることなく、
一人ひとりがそれぞれに出来る形で被災者の支援とこの国の再興への貢献を続けてゆく。

それこそが、この数日間、絶望や慟哭、不安や混乱の連続を目の当たりにした日本が、
より強く美しく幸せな国としてこれからもなお前に進む道であろうと思います。

(個人的な解説)原発の事態と東京への影響

東日本大地震を受けた福島第一原発での事態について、知人から質問を受けて簡単な解説を書きましたので、編集したものをこちらに転載しておきます。

現時点で東京では健康に懸念が全くないことを適切に理解し、冷静な行動を心がけてください。

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(※以下の記述は、物理学の知識には基づいているものの、原子力や災害対策の専門家のものではありませんので、正確な情報はマスメディア等が報じる日本政府や専門家のものを優先して下さい。また、実際の行動は自身の責任のもとで行って下さい。)

(記 3/15 17:00)

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(目次)
■ 1.放射能の単位と深刻度
■ 2.被害を及ぼす仕組みと遠隔地での減衰
■ 3.東京での被害の恐れと対処
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■ 1.放射能の単位と深刻度

マイクロシーベルト(μSV)という単位で整理して書くと、
(目安)
 ・国際線片道搭乗1回で浴びる量の例: 200μSV
 ・レントゲン検査1回で浴びる量の例: 600μSV
 ・普段誰もが自然から浴びる量の例: 約2,000μSV/年 (=0.2μSV/時)
 ・身体に影響が心配され始める量: 約200,000μSV
 ・医療処置が必要なレベル: 約1,000,000μSV
 ・致死量: 約7,000,000μSV
(今回の報道)
 ・3/15現在、原発で検出された最大レベル: 400,000μSV/時 (※原発すぐそば)
 ・3/15現在、東京で検出された最大レベル: 0.8μSV/時

3/15現在、原発すぐそばからは退避すべきレベルですが、数十km以上離れた遠隔地では健康への影響は全くありません。

(参考)
SV(シーベルト)は、人体への放射能被曝の度合いを表す単位です。
単位間の関係は以下の通り:
 ・1SV(シーベルト)=1,000mSV(ミリシーベルト)=1,000,000μSV(マイクロシーベルト)
 ・1mSV(ミリシーベルト)=1,000μSV(マイクロシーベルト)

■ 2.被害を及ぼす仕組みと遠隔地への影響

原発からの放射能被害は大きく2種類が考えられます:
 ・[A] 原発から直接放射される放射線による被害
 ・[B] 放射線を放射する物質が原発から放出されることによる被害

[A]は、1999年JCO事故のケースなどが該当します。
今回については、原発で働いている人は被害を受けますが、遠隔地まで被害が及ぶことはありません。
直接的な放射線の強さは「距離の2乗分の1」に厳密に比例して減衰するので、
例えば
 ・原発から200mの場所: 《1,000,000μSV》 の場合
 ・原発から200km(1000倍)離れた東京に直接届いた場合: 《1μSV》 (1000×1000=100万分の1)
になります。
これに加えて、放射線は直進するので、実際には途中にある山・建物など遮蔽物によって全て遮断されます。

[B]については、放射線を放射する物質自体が飛んでくるので、風向き次第で遠隔地でも影響が出る可能性が生じます。
[A]のケースと違って、この場合は物質の濃度自体は拡散して低くなるので、直接放射線を浴びることによる心配はあまりありません。
心配することになるのは、呼吸で吸い込むなどで体内に取り込んでしまう場合で、その場合には体内から持続的に放射線を浴びてしまうので、微量であっても影響が生じ得ることになります。

原発からこれらの物質が空気中に放出された場合、遠隔地に届く濃度は、風向きや天候に大きく影響されるものの、[A]と同じく「距離の2乗分の1」程度にほぼ比例して減少すると考えられます。
(例えば、原発周辺100m四方に最初に分布した物質が風で飛来し、東京周辺100km四方に分布した場合、濃度は100万分の1に薄まります。加えて雨が降らなければさらに上下方向にも薄まります)

■ 3.東京での被害の恐れと対処

可能性は低いですが、今後、東京に被害を及ぼすケースとして考えられる可能性は
《安全基準以上の濃度の放射性物質が東京に飛来する》
場合です。
現在のところ(3/15現在)、これに至る確率は、全く個人的な直観では
 《原発で今後事態がそこまで悪化する確率=数%?》
  × 《風に乗って東京を高濃度で直撃する確率=数%?》 = 0.1%程度?
と思われます。
(つまり99.9%?の確率で回避)

もしこれに至った場合、東京で予想される影響は
 ・屋内退避が必要になる (放射性物質が含まれる屋外の空気になるべく触れない)
  → しばらく屋内で過ごす必要が生じる (十分に拡散するまでの時間(例えば24時間、もしくは数日?)。その間は換気も避ける)
  → 屋外での経済活動が大幅に制限され、物流などのインフラが停滞
です。

もしこの事態を心配される場合の具体的対処としては、
24時間~数日程度自宅から外出しなくても大丈夫な程度の食料・飲料を確保しておくのが妥当な行動と思われます。
(※過剰な買いだめは、より甚大な被害を受けている東北地方の被災地への物資提供に影響を与える懸念があるので避けるべき)

この事態に達すると思われるケースは、原発の(建屋よりずっと頑丈な)格納容器と圧力容器の両方が破壊される場合です。
なお、これを超える最悪の事態として、炉心溶融によって核燃料が床などに集積し、既に停止している核反応が再開し暴走するケースも考えられますが(チェルノブイリに相当)、政府発表を見る限り現在のところこれを想定する事態ではないように見えます。
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(以上)

小休止にて

今年はまだ不運が続くようで、また2週間ほどの入院を余儀なくされていました。
もうすぐ退院して復帰できる見込みです。

日々の仕事から離れていったん頭を休めて、
病棟の窓の外で形を自在に変え流れ行く夏雲に目をとめるひと時が
静かな時間の価値を感じられる機会を与えてくれています。

街の喧騒や仕事のスケジュールから離れた時間は色々なことに気づかせてくれます。
新たに得た大切なもの、そして忘れかけていた大切なもの。
雑事の中で振り返る余裕を持っていなかった時間のうちに得ていた経験が
陰に陽に自分に教えてくれていた学びの数々。
周囲の環境や自分の立場が様々に変化していくなかでも、
自分を基礎づける価値観の中で維持する価値のある部分は維持し続けるべきこと。

そしてまた、スケジュールに追われることを放棄した一見無為な時間が、
次へのエネルギーを補給してくれてもいます。
少年時代以来の主エンジンであり続けてきた好奇心と探究心という電池は、
「さぁ次に何をしようか?」と考えることができる空っぽの時間で充電すべきだったようです。
実務の中での数年間、この充電を怠った故に消耗が進んでいたのかもしれません。

さて、昼間からは一転、
夜の窓の外に広がる高層ビル群には窓の明かりが消えることを知らず、
東京という大都市は途絶えることのない経済の律動を見せています。
あたかも、小休止の後に続く毎日がもう待っていることを知らせているように。

volcanic ash顛末

4月10日に東京を発って仕事でヨーロッパに来てます。

2週間で5都市を回る予定で、行く先々でミーティングの予定を細かく入れていたものの、
日程前半でアイスランドからの火山灰の影響が始まってしまったのでした。

旅程の最初の数日はベルギー・ブリュッセルに滞在した後、
火山灰のニュースが流れ始めた時にはスペイン・バルセロナで仕事の予定をこなしていて、
その次にはイタリア・ミラノへの移動を予定してました。

最初のうちはイギリスや北欧だけが影響を受けていたので楽観視していたものの、
ついにイタリア北部も運航を停止。

代替として鉄道での移動の可能性を考えたものの、
バルセロナの中央駅に行ったらなんと
「フランスでの鉄道のストライキのため、スペイン国外に出る鉄道は一切ありません」
との掲示が。

結局バルセロナで足止めになり、運航再開の目処がたたないまま
全てのスケジュールの再設定、関係者との日程再調整を迫らせることに。

徐々に正常化されてから水曜日に移動を再開し、
早朝6時の便で移動して夜10時の便でもう次の目的地に移動するような強行スケジュールで
影響を最小限に抑えて今週の予定をなんとか終えました。

ヨーロッパでは誰もがこの影響に巻き込まれていて、
「イギリスから何日も脱出できなかった」
「車を同僚と交替で運転して12時間かけて移動した」
「こっちは車で17時間もかかった」
などなどお互いの苦労を分かち合っています。

今日これからヨーロッパを発って、日曜日に日本に戻ります。
下の写真は夕闇が迫るブリュッセルのグランプラス(中央広場)にて。

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近況抄記・続:写真を交えて (2/2)

続いて、国内編。この2年間に手元に残っていた写真から。

まずは九州への小旅行から。青空が見下ろしているこの港町は長崎。
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坂を上った先に並ぶ、中国文化の色濃い寺院やカトリック教会に、
この街が地理的にだけでなく文化的にも、日本と外界との橋渡し役であったことを感じる。
珠玉は坂の上の大浦天主堂。
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広島でも見たことがあったけれど、原爆資料館の展示にはやはり胸をえぐられるものがある。
平時に生きているということは当然のことではないと思い起こされる。
そして今は美しいこの街が焦土から再興するまでにどれだけの苦労があったことだろう。
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続いて熊本へ。
復元天守ながら黒壁が映える熊本城。
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自然の大きさを感じる阿蘇山火口。
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この小旅行の最後は関門海峡・巌流島。
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子供の頃、吉川英治の「宮本武蔵」が好きで、長大な小説ながら何度も読んだものだった。


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国内でほぼ最遠の地、西表島。
マングローブの亜熱帯ジャングルに東京の喧騒ははるか遠くに感じられる。
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夏、東北。

休みを取れた日がちょうどねぶた祭りの日だと知って、慌てて東北行きの予定を決める。
残席わずかの新幹線に飛び乗って、夕方になんとか青森着。
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勇壮な太鼓の囃子に、どこか北国らしい純朴さが感じられるのがいい。

兵どもが夢のあと、平泉。
華やかなりし英雄が生きた悠久の大地の記憶を感じる。

中尊寺金色堂。
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義経最期の地と伝えられる高館。
ここからみたこの雄大な北上川は、かの義経の目にも焼きつけられていただろうか。
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七夕祭りで観光客を集める仙台へ。
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松島。数百年の昔から来訪者に愛でられ続けてきた情景に時間を忘れる。
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異文化に触れるのも楽しいけれど、
落ち着いた日本の様式美に心休まる時を楽しむのもいい。

京都・東福寺。
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清水寺。見なれた観光地もたまに訪れるとまた良いもの。
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清水寺のお隣、高台寺。
やはり京の庭は山が借景に馴染んでいてこそ。こればかりは東京では再現できない。
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正月、伏見稲荷大社。
どこまでも続く赤鳥居の列もまた京都の情緒を醸し出すもののひとつ。
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東京に戻る新幹線に乗る前にちょっと立ち寄って京都を感じてこれるのが
京都駅前にその威容を見せる東西の本願寺。
このときは最終の電車になってしまい、東本願寺の門も既に閉じられていたものの、
夜の静寂に佇むその荘重な姿の厳めしさもまたいい。
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故郷は、どこか心に残っている原風景との再会を楽しめる場所。

竹林を抜ける道の先は、幼少の頃には不思議と冒険心とにつながっていたっけ。
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田んぼの畔につくしを見つけるのも、なんだか嬉しくなる。
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山の連なるこの盆地の景色自体に染み込んでいる数々の記憶。
深い青空に浮かぶ雲の形を見て想像を膨らませたりしなくなったのはもういつからだろうか。
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木片で作ってもらったお気に入りのトンネルでひとやすみ。
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うん? ボクは今どこを撮られてるんだろう・・・?
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遠くまで足を伸ばさずとも、はっとする光景を東京で見つけるのもまたいいもの。
 

お堀に映える夜の日比谷通り。
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東京タワーが映り込んで煌きを見せる愛宕グリーンヒルズ。
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春の梅。旧芝離宮にて。
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そして千鳥ヶ淵の桜。
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街の雑踏を横目に、季節を知らせてくれる秋の花々もまたいい。
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最後は、夕闇が迫る浜離宮の夕暮れ。
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附記:
今日ようやく退院しました。
しばらく無理は避けて身体を少しずつ慣らしていきます。