近況抄記・続:写真を交えて (1/2)

文章だけの近況報告も味気ないので、
旅先の写真を中心に、この2年間の簡単な記録をご紹介。
前半としてまずは国外分から。

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旅行で行ったトルコより。
エフェソス遺跡。
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ローマ帝国全盛期に帝国の東方版図の中心都市だっただけあって、トルコという
今では一見意外な場所にローマに比肩するほどの規模の遺跡が残されている。

トルコ中部高地の奇岩群。
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イスタンブールの大寺院、アヤソフィア。
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アヤソフィアと相対する大寺院ブルーモスク。
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トプカプ宮殿の正門。
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イスタンブールは、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルとして、そしてその後
オスマン帝国の首都として、千数百年にわたって西欧と対峙する大国の首都であり続けた街。
この街に蓄積された文化財の数々、そして中心部の王宮や城壁がその歴史の威厳を物語る。

観光客が訪れない小さなモスク。夕陽がオリエンタリズムをかきたてる。
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この寺院を訪ねる。観光開発された大モスクにない何かを求めて。
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街の喧騒からふっと切り離されたような静寂の小空間に靴を脱いで上がる。
夕刻にあわせて数人の地元住民が参拝に訪れた。
そこで感じたのは、日本でお寺を訪ねたときの感覚を思い起こさせる懐かしさ。
日常生活に溶け込んだ寺院の静寂に、イスラムを異物として扱う拒絶感覚が氷解された。
戦火のイメージと結び付けがちなイスラムだが、少なくともトルコのような穏健イスラムは
日本における仏教の位置付けと変わらないのではないか、と夕刻の静寂に想う。

歴史地区から街に目を移すと、映画に出てきそうな坂道が海岸まで延びる。
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中国、上海近郊の蘇州にて。蘇州は中国有数の庭園群を抱える街。

留園。
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奇岩を愛でる感覚を日本人はそれほど共有していないけれど、じっくり見ていると
次第に味わい深く感じられてくる。

拙政園。
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日本にはない様式も端々に見られるが、
遠景を借景するなど、日本庭園と美意識の共有を感じる。
日本語を勉強中の地元の大学生と偶然知り合って、
ガイドになるための練習をしたいからと言って広い庭園を案内してもらえる幸運に恵まれた。

虎丘。
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紅葉に異国の地で秋を感じる。

観光地からふと目を横に遣ると、途上国の実情が顔を出す。
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一方で、郊外の新規開発地区には高層マンションが立ち並ぶ。
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中心街では、近代中国のステレオタイプに出くわすことも。
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一方で繁華街のデパートに足を伸ばせば、地方都市でも日本と遜色ない光景を目にできる。
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この中規模の地方都市では、路地に土煙が舞い、物乞いが歩く発展途上国としての顔と、
高層マンションや最新のオフィスビル、デパートが立ち並ぶ日本と変わらない生活水準を得た
新興国としての顔とが、奇妙なほどに隣接して存在している姿にこの国の現実を見出す。

対照的に、すでにアジア経済の中心都市の一角としての地位を得た大都市、上海。
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上海環球金融中心が摩天楼の新たな頂を形作る。
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この浦東地区ではこのビルをさらに超える大規模開発プロジェクトが続くようだが、
世界経済の停滞は今後のこの街をどう運命づけるだろうか。

浦東地区の対岸には美しい姿を見せる旧居留地区。
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今は観光地となって人々を魅了するこの美しい歴史地区は一方で、
中国が大国の地位を逸した近代史の象徴でもある。

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米西海岸、ロサンゼルス・サンディエゴへ。
仕事だったのでLAX空港から目的地までの往復のみで、ほとんど観光は出来ず。

広いハイウェイが続く荒野と、
「オバマ政権の鉄道計画?全然駄目だね」というモーダルシフトなど意に介さぬことばに
アメリカという国の一片を感じる。
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どこまでも続く店内。これもいかにもアメリカ的なるもの。
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記事が長くなったので国内分は別記事で。

ブログ再開・近況抄記

ご無沙汰してます。

思いがけず少し時間が出来たこともあり、この機にブログを再開しようと思います。
ついでにウェブサイト全体もリニューアルしました。
(旧サイトはこちら:http://www.trove.jp/index2.html

最後に更新したのはもう2年前になってしまったので、
まずは2008年3月以降の顛末から書いてみます。

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2008年3月には修士号を受け取り、6年間の学生生活は無事に終了。
3月末はスーツや鞄を買いそろえたり研究室から荷物を引き掃ったり。

同4月には外資系コンサルティングファームM社に入社し、会社生活をスタート。
簡単な研修を終えてゴールデンウィーク前後にはプロジェクトに入って働き始める。

数ヶ月ごとに異なる業界、異なる目的、異なる関わり方でのプロジェクトを経験できたのは
ビジネスの世界の概観を見る経験として他所では得難いものだったと思う。
国境をまたいでスピード感を持って仕事を前に進める感覚と、
名刺交換に始まる日本的なビジネス慣習との両方を1年程度で手っ取り早く得られた点でも
社会人1年目の帰属としてM社は良い選択だった。

そしてなにより、希有な才能や人格を持った多くの知己を得られたことが
人生に与えた影響として最も特記すべきだと振り返ることになるのだと思う。
もちろん全員が全員そうだと言うほどに完璧な組織とまではいかないけれど、
類い稀な人材に同様に高い確率で出会える場所を他で探すのは
容易ではないのだろうと思われた。

2009年8月末をもってM社を退社、新しい仕事を始める。
M社のメンバー数名でスタートさせた試みは、最初は全てが手探りだったものの
徐々に仕事内容や陣容の漸進的拡大も目指せるようになりつつあり、今に至る。

小所帯で、自分たちがこれは面白いと思ういろんな仕事に手を出すことができ、
しかもそれを自分たちだけの責任で遂行する妙味という点で
大企業化した組織の中で働いていては得られない充実感を感じているところ。

そして今は思いがけない小休止。
しばらく体調不良を感じていたところ、病院で4-6週の入院治療を言い渡され、
観念して仕事の手をいったん休めて静養することに。

でもこれも、この機に休養を取って心の余裕を取り戻すことができそうで、
また3月中には万全の体調で復帰して仕事にも以前以上に集中できることを考えると、
とても良い機会だったのでは、とも思える。
もちろん、多方面に迷惑を掛けてしまった手前、呑気なことは言っていられないのだけれど。

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この2年間の顛末はおおよそこんな具合だったのですが。
やはり、たまにはブログに文章を書ける程度に余裕のある生活をしたいものです。

と言っておいて仕事に復帰後に実際どの程度続けられるか分かりませんが、
たまに暇なときにでも見ていただけると幸いです。

職業選択の基準

現代日本をとりあえず想定するとして、
人生を決定づける選択は何か。
一般的な時間順序を想定すれば、順番に
1.学歴の選択
2.職業の選択
3.配偶者の選択
とすることができるだろう。
東大卒という恵まれた人には1.が入っているのに違和感を感じられるかもしれないが、
現実の社会では人によっては切実なものでもあるだろう。
さて、以下では2.について考えたい。

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現代社会で生きていくには職業の選択は全員に必須のものである。
その選択の基準として、以下の3つを挙げてみよう。
(a)自分にできるか?
(b)自分がやりたいか?
(c)自分がやるべきか?
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(a)
まず、その職業が自分にできる仕事かどうか。
もちろん、自分の能力では届かない仕事はしたくてもできない。
例えば俺が今プロ野球選手になりたいとかアナウンサーになりたいとか言い出したって
無理なものは無理だ。選択の上で当然の前提である。
また、たとえその職業に就けたとしても、能力的に厳しい仕事であれば
成功は望めないだろうし、続けることが大きな負担にもなるだろう。
その意味で、この基準は「自分の能力を活かせる仕事」という基準に通じる。
能力を活かすという基準は(c)でも触れよう。
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(b)
第二、その職業を自分がやりたいか?
やっていて楽しい仕事じゃないと続かない、というのはよく言われることだ。
モチベーションを高く保持できなければ、充実した成果を残すことはできない。
とは言え、前稿でも書いた通り、これだけが職業選択の最優先基準になるとは
俺には思えない。
楽しいかどうかだけで納得して職業を選んでいる人は少なくないだろうし、
そんな人のほうが少なくとも刹那にはずっと幸せなのかもしれないけれど、
でもそれでは人生のもう一つの奥深い面白さを楽しみ損ねているといえるかもしれない。
ここで楽しむという言葉を使ってしまうと(b)と(c)の境界線はぼけてしまうけれど。
やっていて自分が楽しい職業、という点で、
給与その他の報酬、地位、名声などもこの項目に当てはまる。
多額の報酬をもらえれば、あるいは社会的に高い地位と賞賛を受ければ、
それは楽しいことだろう。
だが、これは人生を選択する上での基準の一つでしかないと強調したい。
立身出世が目的化してしまった人生のなんとつまらないことか。
また、報酬や地位のような俗物的欲求でなくとも、
より豊かな人生経験を得られるかどうか、
より豊かな交友関係を得られるかどうか、
も人生を選択する上で重要な要素と考えたい。
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(c)
第三、その職業を自分がやるべきか?
これは一番判断基準を定めるのが難しい。
一方でそれゆえ、示唆に富んだ基準を導き出すこともできる。
完全に利己主義な人間であれば、(a)(b)の基準だけで十分だろう。
例えば、詐欺師ならばその仕事が可能でかつ儲かればいいのだから。
だが少なくとも人間として最低限の倫理観と哲学を持ち合わせていればそうはいくまい。
その仕事をするべきかどうか。
自己の倫理観に照らして考えることも、社会的規範に従って考えることもできよう。
とはいえ、自己の倫理観と社会規範が対立して相いれない場合は、
まずはなぜ自分の認識や価値観が社会の価値
観に反するのかを自問した上で
自分の価値観を修正すべきとなれば修正すればいいだろうし、
やはり社会慣習のほうが間違っているとなれば、
そのときはこの自問は政治家のような職種の選択を後押しすることになるだろう。
ここでは、最低限の社会規範には反していないとして、
自己の倫理観を基準として採用することにしよう。
自分が楽しいか、つまり自分自身に刹那的幸せをもたらすか、という基準に優先してでも
仕事に別の目的を持つのであれば、多くの人は自分以外の人への貢献を考えることだろう。
それは自分の愛する配偶者や家族かもしれないし、
自分の属する小規模なコミュニティ、あるいは地域、国家、世界かもしれない。
自分は不特定多数を助けることに貢献するべきだ、と考える信念を持っている人ならば
消防士か警察官、医師、看護士のような職業の選択が動機付けされるだろう。
国家や民族に貢献するべきだ、と考える信念を持っている人ならば
(彼らになぜその規模のコミュニティを貢献の対象に選んだのかと問うても
明快な根拠を聞けるとは思えないけれど)、
政治家や官僚、そして国軍兵士(日本では自衛官)といった職業がお似合いだ。
あるいは、宗教への献身を生きがいにする人も存在する。
真理という得体の知れないものへの貢献を口にする数学者も存在する。
だが、人以外への献身を人生の目的と考え始めたら、
もう一度自分の考えを整理して考え直してみるといいだろう。
そういった時には、どこかで自分で自分をだましてしまっている可能性が懸念されるから。
国家への貢献といいながら、国家という言葉が国民ではなく政体自体を指すようになれば
偏狭なナショナリズムはファシズムへと陥ることになる。
宗教への献身の危険な実例は枚挙にいとまがない。
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社会への貢献という点で難しいのは、
より直接的に社会に貢献するセクターに属していると、
社会に大きな貢献をするまでに自分自身が力を持つのが難しい点である。
現代社会では、社会貢献ではなく利潤追求を行動原理とするセクターが
社会活力を生み出す役割を担っている。
ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットの生き方がベストかどうかは分からないけれど、
彼らがこれから慈善活動でどれほどの不幸な人を幸福にするだろう。
公的部門で社会貢献をするのもいいのだが、
社会貢献の動機付けを利潤追求の民間部門に持たせるのは有力な代替手段である。
また、特定の誰かを幸せにするというのでなくても、
この地球文明そのものに貢献するという意味を自然科学や文化芸術にも見出したい。
とはいえ、国家単位を貢献の対象に選ぶ必然性がないのと同様、
人類という単位を貢献の対象に選ぶ必然性もないことを書き添えておこう。
(a)で触れた「自分の能力を活かせる仕事」をしたいという感情は、
ひとつには自分の能力をより活かすことで自分の貢献を最大化したいを解釈できるだろうし、
あるいは自分の能力をより活かすことで報酬や地位とそこから得られる即物的幸福感を
最大化したいと解釈することもできるだろう。
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以上は一般論を書き並べたつもりである。
最低限の生活を営むために選択の自由度がある程度あるという仮定の下で。
この3つの条件の内、いずれかにかたよって考えている場合には、
他の条件を無視するよう自分に命じてはいないか自問するのは有用な時間となろう。
(a)自分に向いているというだけで人生を選ぶのも、
(b)刹那の楽しさだけで人生を選ぶのも、
(c)他人への貢献だけで人生を選ぶのも、
もとより短い人生の面白さを最大化するにはバランスを欠いている。
さて、この基準をもとに俺はどう考えるべきか。
今はあまり時間がないから続きは次の機会に書くことにしよう。